目次



























































 

翻訳を担当された穂積浅葱氏、ピーター氏、Marika 氏、九藤海悠氏のご尽力に感謝します。

#1

ヒト以外の動物だって生殖するんだから、私たちもしていいよね? 生殖は自然なことだよ。

この言い訳は、ヒト以外の動物(以下、動物)が生殖しているのだから、ヒトが生殖することも道徳的に許されるとするものだ。言い換えれば、もし動物がある行為Xをするのであれば、ヒトが行為Xをすることもまた道徳的に許されるという主張だ。

この議論の重大な欠点は、動物は多くの人が非難するであろう行為――幼児殺しや強姦――をもしていることだ。ヒトの文脈に当てはめた場合に好ましいとされる行動――助け合いや分かち合い――と、前述したような非難されるべき行動を動物はどちらもしているのだという点を考慮すれば、動物たちの行動をヒトの行為の道徳的正当性の判断基準とすることはできない。

動物たちの特定の行為を恣意的に選んでそれを自らの行為の正当化に用いながら、ヒトであれば非難されるような行為をも彼らがしていることを無視することは、「チェリー・ピッキング」という詭弁術にあたる。そもそも、動物たちの行動を「ヒトであっても許される」「ヒトであれば許されない」と分類できている時点で、すでに我々が他の道徳的判断基準を持っていることは明らかだ。その基準を使えばいいだけではないか。

生殖が自然なことであるという点で、この議論は同じ欠点を抱えている。確かに生殖は自然なことではあるが、ある行為が自然なことであるからといってそれが道徳的に正しいということにはならない。自然界では、ヒトであれば善いとされること(利他主義、協力、共感)と共に悪いとされること(幼児殺し、強姦、生き物の捕食)も起きているので、あることが自然なことであるという事実はそのことが正しいまたは正しくないということの証明にはならない。これは「自然に訴える」論証として知られる詭弁だ。

#2

私たちが生殖しないとヒトは絶滅してしまう。種の保存のために生殖すべきだ!

この言い訳が持ち出されると、会話が横道に逸れることを覚悟しなければならない。この時点で問題は「ヒトの絶滅を容認したり、それどころか促進したりすることは道徳的に正しいのか?」というものに変わる。

ヒトが野生動物の苦痛を取り除く前に自分たちの絶滅を目指すことが道徳的に正しいのかということについての議論は興味深いものだ。なぜならヒトは、自然界に存在する苦痛を取り除く技術を開発(しようとすることが)できる可能性を持つと考えられる唯一の種だからだ。しかしながら、この言い訳を持ち出す人との会話においては、ヒトの絶滅についてのみ議論するのが良いだろう。ヒトの絶滅について初めて議論する人は、動物たちの苦痛と知覚能力に関する微妙な倫理の議論までする気はないだろうと考えられるからだ。

多くの場合、絶滅に反対する意見は、理性ではなく集産主義的・感傷的な観点に由来する。そのような意見は、たいてい「ヒトには特別な資質があるのだから、人類を絶滅させてはいけない――たとえそのことが個人を犠牲にするのだとしても」などというものだ。これまでの歴史に見られるように、集団の利益を個人のそれに優先することは、往々にして極悪非道な出来事を引き起こしてきた。生殖の例でもそれが起こるかも知れないということは想像に難くない。会話を前に進めるために、逆に問いかけてみよう――「なぜヒトが存在しないといけないんだ?」「自主的で誰の人権も侵されない方法での絶滅なら、何が問題なんだ?」。

この種の会話は面白いものだが、最終的には相手がコントロールできるもの、すなわち相手自身の行動に話を持ってくるのが最善であろう。

#3

他のみんながどうせ生殖し続けるんだから、私一人がやめたって何も変わらない。それだったら私も生殖するよ。

もちろん一人が生殖を控えたからといって、新たに生まれるヒトの数が劇的に減るわけではない。しかしながら、ある行為が道徳的に善いか悪いかはその行為が広く行われているかどうかで決まらない。さらに、他者が何をしようと我々は我々自身の行動に責任を持つのであって、他者の行動に責任を持つのではない。例えば、この種の論法を容認してしまうと、ヒト以外の動物を食べるために殺すことをも正当化しなければならない。「みんなもやってることだから、私だって動物を屠殺してもらってその死体を食べるために金を払い続けるよ――私がそれを控えたところで殺される動物の数は減らないからね」。問題は明らかだ。

このような議論は、周囲の人々がある行動をしているということだけで自身の道徳的な責任をないことにすることを目的とする。長い物に巻かれることを選択してしまうと、道徳への無関心の影響を受けるのは我々自身だけではない、我々の行動は他者に影響を与えるし、その影響に目を瞑ったところで他者の受ける苦痛は変わらないのだということを覚えておかねばならない。ヒトは善いことと悪いことを区別できる唯一の種――最も高い知能を持つ種――だと言われるが、人々は問題を解決しようとはせず、自身が問題を助長していることを正当化しようとして他者も同じことをしているのだと言う。これが道徳的に許されるのならば、道徳的に許されないことが果たして存在するだろうか。

#4

生殖しないと、ヒトがせっかく持っている生殖機能が無意味になっちゃうよ。

我々に生殖機能があるという事実は、我々が生殖するべきかそうでないかには関係ない。我々の身体には、道徳的に善くないとされるものを含む様々な行動をする機能が備わっている。我々は身体機能がある行為を可能にするからといって、その行為を直ちに正当なものとはしていないだろう。

「生殖機能は特殊な事例だよ。身体の他の部位は色んな用途に使えるけど、生殖機能でできることは一つしかないんだからそのために使わなきゃ」と主張する者もいるかも知れない。これについても同じことが言える――ある器官が持つ機能が一つなのか複数なのかによって、その機能を使うべきかそうでないかが決まることはない。使わないままにしておいても問題はないのだ。

ほとんどの者は、生殖することが不道徳だと見なされる状況があり得るということに同意するだろう――すなわち、生まれる子が遺伝的な病気を持っていて、激しい苦痛ばかりの短い人生を送ることが分かっているような場合だ。我々が生殖すべきでない状況があり得るということが分かっているのであれば、生殖機能を持っているということだけで生殖が直ちに正当化されるわけではないということも分かるだろう。もし「せっかく生殖機能があるのだから使わないと」という論理による生殖の正当化を容認してしまうと、(生殖肯定論者/natalists の基準で見ても)生き続ける価値のない人生を送る子孫の誕生も含めて、全ての者の誕生が正当化されることになってしまう。

#5

私の信仰する宗教は生殖を肯定しているよ。

強い宗教的信念を持っている人は多く、その大部分がその信念を理由に他者をコントロールする権利が自分にあると思っている。これは非常に危険な考えであり、今はこのように考えている者の多くはいずれ熟慮の末にこの考えを捨てる(または手前勝手な言い訳に走る)ことになるだろう。

自らの信仰が許す限り我々は他者に何をしてもいい、という考えを許容してしまうと、同様に他者も彼らの信仰が許す限り我々に何をしてもいいということを受け入れなければならない。例えば、同性愛を禁じる信仰に基づいて同性愛者を処刑することが許されるべきだと主張する人たちがいる。しかし、他の人が「同性愛に対する嫌悪は私たちの宗教では禁じられているから、私たちは同性愛を嫌悪する人、すなわちあなたたちを処刑することを許されるべきだ」と主張した場合、彼らはそれを受け入れるだろうか。恐らく受け入れないだろう。この種の論法が諸刃の剣であることに気付けば、ほとんどの人がこれは使いやすいものではないと同意するはずだ。

ある人が生殖する時、その人は他者を巻き込む行為をしている。そして上で述べたように、信仰は生殖を道徳的に正当化する手段として有効ではない。また、あなたがこの行為に巻き込まれる側になってもいいと思っているかどうかは関係ない。実際に巻き込まれる側の人が同じように思わない可能性があるからだ。とりわけ生殖肯定論者が地獄の存在を信じているのであれば、生殖とは他者を銃弾の飛び交う戦場に送り出すような行為だと言える。自分がそのリスクを負っても構わないと思えるかどうかは生殖の是非に関係ないし、信仰は他者にそのリスクを負わせることを正当化しない。

#6

私たちが生殖をやめたら、誰が人類最後の世代の世話をしてくれるの? 老人世代の世話をするために新しい世代を生み出さないといけない。そういうサイクルなんだよ。

面白い言い訳だ。この言い訳で生殖は正当化されないが、対処する必要のある問題に着目することはできている。

まずはなぜこの言い訳が生殖を正当化できないのか説明しておこう。何らかの目的を果たすために便利だからといって他者の存在を開始することには、生殖肯定論者でさえもその多くが反対することだろう。この論理に従えば、既存の人々を益する介護以外の目的を果たすための道具として新たな存在者を生み出すことも肯定されてしまう。これは道徳的に許されない様々な行為に繋がる。工場や農場で働かせるための人々を生み出して我々の生活水準を保とうとすることが許されるだろうか。正直な人であればこれを正当化することはせず、人生は完璧なものではない、老化などの障害を乗り越えなければならないものなのだと認めるだろう。しかしこのことは、我々自身の問題を解決するために新たな人々の存在を始めることを正当化しない。子供たちは他者に食べ物を運んであげる奴隷ではないのだ。

注:この原則の例外として、人類の存続が道徳的に正当化され得る場合がある。それは、野生動物たちが感じる苦痛の問題に対処するために人類は存続しなければならない、という議論だ。これと「老人介護」論の重要な違いは、提案されている解決策が問題の原因そのものであるかないかということだ――動物たちの苦痛を解決するための人類存続は純粋に問題解決の手段だが、年老いた人々の世話をするための人類存続は問題の原因そのものである。

さて、人類最後の世代たる老人たちの介護の問題に話を戻そう。正直に言えば、我々の知る限りでは完璧な解決策は見つかっていない。この問題は絶対に越えなければならない壁であり、我々は滅びゆく社会においても自分で食べ物を食べられるような社会の仕組みを作らなければならない。ひょっとすると、完璧な解決策など見つからないのかも知れない。

#7

世界には苦痛がたくさんある。私が子供を作るのをやめたところで大して変わらないよ。

この言い訳を持ち出す人が言いたいのは、世界全体の苦痛の量があまりにも大きいので、自分の人生の喜びや充実を犠牲にすることを正当化できるほどの重要性を自分の貢献に見出せないということです――彼らが引き起こす苦しみは「海の中の一滴」に過ぎない、という主張です。

しかしながらこの人たちは、恐らく無意識的にだが、この主張で実質的に全ての非道徳的な行為を正当化してしまうことになる。あらゆる非道徳的な行為は、それ単体では海の中の一滴に過ぎないからだ。例えば、自分の楽しみのためだけに罪もない他者の家を燃やしてしまう行為を正当化するためにこ同じ論法を使うことは可能だ。世界全体の苦痛と比べれば家が燃やされることによって生まれる苦痛など海の中の一滴でしかない、というのは事実だろう。しかし、このことは個々の非道徳的な行動を正当化することはできない。この主張が本質的に意味するのは、個人が他者への加害を可能な限り控えるという責任を誰もが免れてしまうということだ。

子を作ることに限らずあらゆる行為について言えることだが、一人の人間の行動が、その後の膨大な苦痛と数多くの不条理に繋がる可能性があるということにも言及しておかなければならない。子を作ることの例で言うと、生殖はただ子を作るだけの行為ではない。生殖によって、その後の何百もの新たな世代――何百どころではないかも知れない――が生まれる可能性があるのだ。これは無情に軽視していいことではない。

#8

私の子はもしかするとガンの治療法を見つけたり、何か凄いことを成し遂げられるかも知れないよ。

この言い訳への応答には複数のやり方がある。

  • その子は問題解決のために存在させられることになるが、問題それ自体が存在の結果なのだ。新たな人を作り出すことは、燃え盛る家に乾いた薪を投げ入れるようなものだ。件の子は、ガンの治療法を見つけるよりも自分でガンになってしまう可能性の方がはるかに高いだろう。このような問題をたくさん抱えた世界に新しく人を投入する代わりに、既存の人々が持つポテンシャルを発揮させることに集中するべきではないか。我々は人々が苦痛を感じないようにできる限りのことをしているが、人々はそもそも存在しなければ苦痛を感じないのだ。初めから存在させないことが一番簡単なことではないか。

  • その子がガンの治療法を見つける可能性は非常に低いが、ないわけではない。しかし、同様に連続殺人犯やテロリストになる可能性もある。人を作り出すとき、誰もこのことを考えない。このような言い訳は、しばしば「私の子はガンの治療法を見つけるかも知れないし、もし見つけなかったとしても別に問題はないよ」と発展する。しかしそうではない。生まれる子は善いことをする可能性も、極悪非道の罪を犯す可能性もある。「生まれる子はガンの治療法を見つけるかも知れない」ではなく、「生まれる子はガンの治療法を見つけるかも知れないし、飛行機でビルに突っ込むかも知れないし、詐欺師になるかも知れない」のだ。この応答の仕方は生殖肯定への強力な一撃というより、バラ色の未来しか見えない純朴な世界の見方の修正にとどまる。

  • この言い訳をする人が、ガンの治療法を見つけられるような環境を子供に提供できると仮定しよう。その場合、養子をとらない理由は何だろう。何百万人もの子供たちがすでに生まれていて、機会や資金がないために本来のポテンシャルを発揮できずにいる。新たな人を作る代わりに、すでに生まれた人を養子にすればいいではないか。

#9

年をとった時に介護してくれる家族がいないと、孤独だし困ってしまうよ。

この言い訳を持ち出す人には共感の余地がある。確かに私たちは生まれたいと頼んだことはないし、年をとることによる苦しみと孤独を望んだわけではない。しかし、これは新たな人を存在させる理由にはならない。

なぜこれが生殖を正当化しないのか説明しよう。何らかの目的を果たすために便利だからといって他者の存在を開始することには、生殖肯定論者でさえもその多くが反対するだろう。この論理に従えば、既存の人々を益する介護以外の目的を果たすための道具として新たな存在者を生み出すことも肯定されてしまう。これは道徳的に許されない様々な行為に繋がる。工場や農場で働かせるための人々を生み出して我々の生活水準を保とうとすることが許されるだろうか。正直な人はこれを正当化することはせず、人生は完璧なものではない、老化などの障害を乗り越えなければならないものなのだと認めるだろう。しかしこのことは、我々自身の問題を解決するために新たな人々の存在を始めることを正当化しない。子供たちは他者に食べ物を運んであげる奴隷ではないのだ。

新たな人を生み出す代わりに、人生は完璧なものにはなり得ないのだということを受け止めて、搾取的でない他の方法を見つけてニーズを満たすことに注力しよう。

  • 同年代のコミュニティーを作り、年をとっても仲間と経験を共有できるようにしよう。

  • 老人にコミュニティーや介護を提供している既存の施設を見つけよう。

  • 危険な環境に置かれている動物を引き取り、感情面で支え合うことのできる仲間を持とう。

  • 危険な環境に置かれている人を引き取ろう。将来その人は恩に報いてあなたを助けてくれるかも知れない。

#10

子供を持つことが私の人生の目標なんだ。子供がいないと人生が無意味になってしまう。

この言い訳の由来するところは理解できる。ヒトは他の有感生物と同じように、生まれついて生殖本能を持っている。多くの人が生物としての生殖本能を基に生活を築き、(生物学的な)家族と共に生活する。しかし、当然のことながら、このことが生殖の道徳的正当性を変えることはない。

まず初めに認識しておいた方がいいことは、人生に意味をもたらしてくれるものを(存在するか否かに拘わらず)他者に見出すことは健全ではないということだ。多くの人にとって、人生の意味を自給自足(他者の行動に頼らない)できた方が有益だろう。いずれにせよ、あるものに誰かが人生の意味を見出すからという理由だけでは、人が他者を完全に思い通りにできることにはならない。例えば、(極端な例ではあるが)連続殺人犯が人を殺すことに大きな意味を見出しているとしても、このことで殺人という行為が正当化できると考える者はいないだろう。

それでも、この言い訳を持ち出す人が目的を見失う必要はない。代替案がある。一つは、明らかなことだが養子を引き取ることだ。世界には何百万人もの孤児たちがいる。その中の一人を引き取って育てることが、人生に生殖とほとんど同じ意味を与えてくれる。ただし、養子縁組は引き取る側の満足ではなく引き取られる側のニーズの観点から見るべきだということは言っておかなければならない。もう一つの代替案は、熱中できるコミュニティー活動や目標を見つけることだ。コミュニティーの人々に囲まれたり、自分の外に目標を設定してその達成を目指したりすると、コミュニティーの人々との交流や人間関係、または目標達成に向けて成果を生み出すことに意味を見出すことができるため、子孫を残したいという欲求を抑制したり、さらには取り除くことが可能になる。

#11

私の子供なら比較的苦痛の少ない人生を送れるから、生んでも問題ないよ。

この言い訳を持ち出す人が裕福な地域に住んでいて、動物どころかほとんどの人々が存在することによって感じるような苦痛からも守られていると仮定しよう。ある人が別の人を比較的恵まれた環境に生み出すとしても、生まれる人の人生が生きる価値のあるものになるのだと保証してくれるような環境はこの世界に事実上存在しない。今の我々の存在の仕方では、自分にとって生きる価値のない世界に人が生み出されてしまうリスクが常に存在する。深刻な鬱病を持って生まれてしまう人はどうなのか。ひどい苦痛を伴う慢性的な病気を持って生まれてしまう――または若い時に罹ってしまう――人はどうなのか。恵まれた環境がある程度のリスクを減らしてくれても、リスクをゼロにすることはできない。このようなことの起こる可能性がどれほど低いものであるとしても、生まれる人の人生が生きる価値のないものになる可能性があり、その人が生まれることが絶対に必要なわけではないのだから、生まれる人が被害を受ける可能性のあるリスクを他者がとることはできない。リスクをとったところで期待できるメリットがないのだからなおさらだ(生まれる人は生まれることで利益を得ない)。

人生とは単に、心身の健康を保つために満たさなければならない欲求の連続だ――そして我々はその欲求の多くを満たすことができない。そもそも人は生まれる必要がないのに、なぜ満たされない欲求を人に持たせる必要があるのだろうか。

さらに、この言い訳を持ち出す人は、生まれる人の幸福に影響する他者の行為を考慮していない。世界には強姦犯、殺人犯、テロリストなどがたくさんいる。人の存在を勝手に始めてしまうことは、単にサイコロをふって物事が穏便に進むことを願うことでしかない。また、生まれる人が他者の苦痛の原因になる可能性もある。生まれる人が学校で銃を乱射したり連続強姦犯になったりする可能性を、どう排除できるというのだろう?

#12

いずれは苦痛を根絶する方法が発明されるはずだから、生殖しても問題ないはずだよね。

確かに、人類がいつか全ての存在者の感じる苦痛を根絶する方法を発明するかも知れないが、それは新たな人の存在を開始する理由にはならない。

そもそも、苦痛を根絶することのできる日が訪れるのかどうかさえ分からない。が、ここでは議論を進めるために、とりあえずそれが訪れるものと仮定してみよう。この理想の実現のためにほぼ間違いなく必要とされるであろう膨大な労力を、未だ存在しない者たちの苦痛根絶に注ぐべき理由は何だろう。未来の存在者の苦痛は、彼らが存在する場合にのみ存在する。そもそも初めから存在させなければいいだけの話なのに、彼らを生み出して苦痛に晒してからその苦痛を和らげようとするのは本当に馬鹿げている。彼らを生み出すことはせず、彼らの苦痛根絶に注ぐこともできた労力を現存する者たちの苦痛根絶に注ぐ方がよほど論理的で道徳的だろう。

繰り返しになるが、苦痛を根絶することが可能であり、我々がその実現に尽力しなければならないと仮定しよう。この時、現時点と苦痛根絶が実現される時点の間に中間世代が存在することを完全に無視することになる。何十億もの個人が属することになるであろうこの中間世代は、自ら苦痛に晒されながら人類を苦痛根絶に導くために生まれるのだ。我々が今スマートフォンやテレビのある生活を享受するために人々が中世のイングランドに生まれたことは公平だったといえるだろうか。存在すらしていない世代の苦痛を根絶するために人々を苦痛に晒すとは、我々はいったい何様のつもりなのか。そもそも苦痛根絶の恩恵を受ける世代が存在し始めること自体が彼らの苦痛の原因ではないか。我々は、存在しなくてもいい問題を解決するために苦痛を感じる能力を持つ者たちを存在させ、苦痛に晒しているのだ。

#13

いつだってヒトは生殖してきた。今も昔も普通のことだよ。

確かにヒトは今までずっと生殖してきたが、我々が常に何らかの行為をしてきた事実がその行為を続けることを正当化するだろうか。今までそうしてきたから、というだけではその行為をすること/し続けることが道徳的に正しいことだということを意味しない。例えば、我々人類は過去に些細な理由で殺し合ってきた。今日、大多数の人々はこの事実を利用してくだらない理由で人を殺すことを正当化しないだろう。

生殖が普通のことだということは確かだ。しかし人間社会では、ある行為をすることが普通のことだとか、それをしないことは社会的に不名誉だからといって、それが道徳的に正しいことであるとは限らない。正しいかどうかに拘わらず皆のすることを自分もするというのは適応であって、道徳ではない。ブッカー・T・ワシントンが言うように、「大多数が容認しているからといって嘘は真実にならないし、間違ったことは正しいことにならないし、悪は善にならない」のだ。

一例として、奴隷制は今日も一部で存続しているが、それが道徳的規範に無関係なことだとは考えられていない。圧倒的多数の人々が、道徳的見地から奴隷制を誤ったものとして斥けている。しかし奴隷制はかつてあらゆる社会で普通のことだったし、大規模なものだった。我々が皆非道徳的だと非難する行為も、かつては普通だったのだ。今日どのような非道徳的な行為が社会で普通のこととされているかを見抜き、それを斥けることが我々の責務だ。

#14

分かった、子供を1人作るだけにして反出生主義に貢献するよ。3人や4人作るよりはマシでしょう?

複数の子供を作るか一人だけにするかの問題ではない。子を持たないことは誰にでも可能だ。もちろん子を1人だけ作ることは、2人や7人、もしくは10人作ることほど非道徳的ではないと言えるが、それでも子を作ってしまっていることに違いはない。子を作ることの道徳的な正しさは、作ることのできる子供の数との比較で決まるものではないのだ。あなたが子を一人作ることを計画していようと15人作るつもりでいようと、それぞれの子を作ることの道徳的な問題は変わらない。

例え話だが、「15人の子に暴行するわけじゃないんだから」と言ってちょっとした快楽のために1人の子を暴行することは道徳的に正しいだろうか。もちろんそんなことはない。悪いことをやろうと思えば何回できるかは関係ない。実際に行われる悪事がそれぞれ非難に値し、行為者はそれに従って裁かれる。これは、納得できる妥協案として理解してもらえることを期待して持ち出される馬鹿げた言い訳だ。絶対に機能しない。

さらにもう一つ認識しておかなければならないのは、子を1人作ることは単に新たなヒトを1人作るだけのことではないということだ。1人作るということは、その子の後に何百世代もの家系が続き、何千もの人々が生み出される可能性を作るということだ。その何千もの子孫は、それぞれ選択肢を与えられず強制的に存在を開始されるのだ。

#15

子供を作らないなんて無責任だよ。君だって生きてて良かったと思ってるでしょ?どうして他人から生きるチャンスを奪うの?

生殖しないことは無責任だという考えは馬鹿げている。生まれる前の人は存在しないのだから、生殖しないことによって他者から人生を奪っていることにはならない。彼らは冥界から地球を見下ろして「生まれたいな」と願っているのではなく、単純に存在しないのだ。存在しない人がどうやって人生を奪われるというのだろう。生まれないことで人生を奪われる主体は存在しない。

無責任なのは生殖することの方だ。子供のために生殖する人はいない(存在しない子供は生まれることで利益を得ることはない)。人々は自身の欲望を満たすために生殖し、その過程で子供を危険に晒す。自身の願望や欲求を満たすために全く新しい存在者を作り出して、充足する必要のある欲求や避ける必要のある危険を押し付ける資格が自分にあるのだと考えることは明らかに利己的な行為である。この言い訳を試しに論理的な結論として扱ってみようか。もし我々が生殖しないことで他者から存在する機会を奪い、利己的に振る舞っているというのならば、我々には(少なくとも我々の持つ資源が養うことのできる範囲で)可能な限りたくさんの子供を作る義務があることになってしまう。

あなたや私が今生きていて良かったと感じているという事実は、恐らく(進化論的な意味で子孫を残すための)存在し続けたいという生物学的な欲求と、生きていて良かったと思えるくらい比較的まともな人生を送ることができている幸運な状況の組み合わせの結果であろう。

#16

でも、それは君の厭世的な世界観でしかないよ。人生の良い面も見てみなよ。

意図的かどうかはともあれ、この言い訳は生殖を否定する議論そのものをはぐらかし、あなたが個人として持っている可能性のあるバイアスに焦点を当てようとする(発生論の誤謬)。あらゆる議論はその議論を支持する人の持つバイアスによってではなく、それ自体の価値によって検討されるべきである。もしその人がバイアスに基づいて誤った主張をしているのであれば、その主張を検討することで自ずとそのバイアスが明らかになる。

生殖は文字通り自身の世界観を他者に押し付ける行為である(言い換えれば、生まれる人たちが親ほど楽観的な世界観を持っていなかったらどうするのか?)という事実を一旦無視して、ここではこの言い訳そのものを検討してみよう。この言い訳の「人生の良い面も見てみる」という点は、反出生主義者が快い経験(または『良い』物事)を考慮しておらず、もし考慮するならば人生はそれほど悪いものではないように思えるはずだ、ということを仄めかしている。この言い訳は本質的な問題を見落としている。確かに我々は人生の中で良いことも悪いことも経験し得るが、この言い訳を持ち出す人は他者のためにサイコロを振る権利を持っていないということが重要なのだ。リスクをとったところで期待できるメリットがないのだからなおさらだ(言い換えれば、生まれる人は生まれることで利益を得るわけではない)。我々は、自分たちが子供を作りたいからといって他者を勝手に作っても良い立場にはないのだ。

#17

人生がそんなに悪いものなら、なんで君は自殺しないの?

この言い訳が見落としている重要なことは、ある者の存在の開始を防ぐことと、すでに存在している者の存在を止めることの違いだ。ある者が何らかの理由で生まれてしまえば、状況は生まれる前とは全く違うものになる。生まれてしまった以上、その者には利害があり、選好があり、主観的な経験がある。我々は、すでに生まれてしまった者たちの幸福の可能性を高め、苦しみのリスクを低減するように努めるべきだ。もちろんこれを完璧に実行することは不可能だろうが、我々はそれでも皆がこの惑星に生きる時間を可能な限り苦痛のないものにできるよう努力する必要がある。

さらに、反出生主義者が生き続けたいと思う現実的な理由(単純に人生を続けたいという理由以上のもの)もある。例えば、反生殖主義的な生殖倫理やヒト以外の動物の権利の認知度を高めたい、というようなものだ。

さらに付け加えておくと、この言い訳はむしろ生殖がいかに非道徳的なものであるかを示している。この点を説明してくれるのが以下の類似した状況だ。

ある夜、歩いて帰宅しているあなたの目の前に車が停まり、降りてきた男たちがあなたを車に押し込んで高速道路を疾走する。怯え、苦しむあなたは懇願する。「なんでこんなことするの? 私をどこに連れて行くつもり? どうしてこんなことができるの?」。すると彼らはこう返す。「気に入らないのかい? ドアはロックしていないから、嫌なら飛び降りていいよ。でも君を車に乗せたことを責めないでくれよ、別に乗り続けることは強制してないんだから。ドアはあるんだから、俺たちが君にしていることがそんなに嫌なら飛び降りればいい」。

#18

あなたの信念を私に押し付けようとしないで。生殖するかしないかは、私個人が決めることでしょ。

この言い訳は興味深い。例えば近くの公園に行って子供を襲おうが、あるいは人間以外の動物を食べるために殺そうが、理屈の上では個人の選択であるように、子供を作るかどうかも個人の選択なのだ。しかし、問題はそこではない。問題は、そうすることが倫理的であるかどうかであり、私たちがこれらのことをすべきかどうかを問うているのだ。

おそらく、この言い訳の提案者は、「個人の選択」という言葉を、好きな曲や読みたい詩を選ぶように、道徳的な領域の外にあるものとして使っているのだろう。しかし、そういうことではない。その選択は、誰か他の人に直接影響を与えている。それはその誰かの幸福を賭けたギャンブルであり、非常に道徳的な領域に属する事柄だ。だから、「個人の自由だ」と言って、自分のやりたいことができると考えるだけでは不十分なのである。新しい存在を生み出す力があるのなら、そうしない責任がある。

#19

子どもたちは、彼らが存在することに感謝しなくてはいけない。

誰かがこのような発言をした場合、次のように明確な質問をするといい。「どの子どもたちですか? 人身売買されている子どもたちですか?テロリストの攻撃で引き裂かれた子どもたちですか? 幼い頃に車に轢かれて、後遺症が残った子どもたちは? 持病を持ったまま生まれてきた子どもたちは?」 。私たちが新しい生命を誕生させるということは、これらすべての危険の矢面に立たせるということを意味する。確かに、射撃は的に当たらないかもしれないし、これらの悪や恐怖を軽減することができるかもしれないが、そもそも彼らをそのような立場に置くのは私たちの役目では決してない。たとえ恐ろしい変性疾患を持って生まれてくる可能性がわずかであったとしても、そのような子供たちはすでにたくさん存在し、養子を必要としている。それなのに、なぜ新たな生殖というチャンスを取るのだろうか?

私たちが子供の健康を賭けにしているのは、繁殖という生物学的欲求を満たすためであり、それは子供が感謝すべきことではない。むしろ我々の方こそ、子供たちが私たちに責任を負わせないことに感謝するべきである。

#20

存在していない人たちのことをあれこれ考えるよりも、すでに存在している人たちを助けることに時間を割くべきだ。

すでに存在している人々の生活の質を向上させるためというのは、もちろん正当な理由でありそれを追求すべきだが、更なる存在を生み出し続けるということに関する道徳的な緊急性を無視すべきではない。私たちは今ある存在に目を向けることと、新たな存在を生み出すことの道徳性の、両方に焦点を当てることができる。現在におけるどのような問題に取り組んでもいいが、子供を作ってはならない。そして他人に子を持つよう勧めてはならない。

考えてみてほしい。子供を産まなければ、自分が選んだ問題に取り組むための時間と資源をより多く確保することができる。さらに、子供を産まないことで、飢饉や干ばつ、病気などの災害や不健康を経験する可能性のある人間や人間以外の生物の数は減るだろう。

また、時間の経過とともに生まれる人間の数が減れば、一般的にはすでに存在する人間のための資源を確保することができる。子供を産まないということは、資源をめぐる「競争相手」が減ることを意味している。そのため、私たちが助けようとしていた、すでに生まれている人々は自由に使える資源が増える。私たちも(子供を産まないことによって)彼らを助けることができるのである。

#21

でも、あなたが生まれていなかったら、今ここに存在してこの会話をすることはできなかったんだよ。

鋭い観察眼である。確かに、親が自分を生んでくれていなかったら、会話相手である自分は存在していない。しかし、両親が自分を誕生させたという事実と、その結果としてこの言い訳をした人と会話をしているという事実は、その決断が倫理的であるかどうかという点においては、文字通り何の関係もない。現実として私たちは、出生奨励主義が規範となり、批判的な思考なしに受け入れられる社会に生きている。私たちは進化的に子孫を残したいという性質を持っており、親が疑問を持たずに子孫繁栄の道を歩んだことは個人に帰する責任ではない。

また、このような言い訳をされる相手が存在している今、生殖をしないように説得するために、できるだけ多くの反生殖的である倫理についての会話をした方がいい(あるいは、他の形での反生殖的な活動に参加した方がいい)というのも事実である。それは本質的に、悪い状況を最大限に利用し、与えられた状況で何か良いことをしようとすることである。この言い訳の提案者との会話は、そのような会話の一つだといえる。

#22

痛みは主観的なもの。あなたが苦しいと思うことが、あなたの子供にとっても同じであるとは限らないでしょ。

ほとんどの場合、この言い訳は子孫繁栄を正当化するための苦肉の策である。生殖肯定論者の世界における「植物は痛みを感じる」というものであるが、これは現実には何の根拠もない主張の形をとっている。この主張は、すべての人間、そして他の動物が同じ神経系を持ち、同じように痛みを経験しているにもかかわらず(おそらく稀な遺伝子異常を除いて)、自分の子供は何らかの形で新しい方法で痛みを経験することになると言っている。それは人間の経験とは大きく異なるため、自分の経験や研究、知識を基準にするのは非合理的であるという。これによると、彼らの子孫の神経系が異なる解剖学的形態をとるか、神経系以外の異なるメカニズムで「痛み」を経験するかのどちらかである。

実際のところ、彼らの子供やその他の新しい存在が異なる痛みを経験すると考えられる妥当な理由はない。また、生まれてくる子供の神経系や解剖学的特徴が自分とは大きく異なり、それによって痛みの種類が変わったり、痛みの感じ方が変わったりすると考える理由はない。(解剖学的・生物学的において)圧倒的に優位な証拠から、彼らは他の人々と同じ神経系を持って生まれ、他の人々と同じように痛みを経験すると考えられる。もちろん、私たちは皆、異なる感情や気質を持ち、それぞれの好き嫌いを持っている。しかし基本的には皆、「もし私の手を切ったら……私はそれを感知するし、痛いと思う」という原則を共有している。

#23

指図するなんて何様のつもり?

これは発言者が意識しているかどうか分からないが、ある道徳的な問題について、個人的な責任を放棄しようとする人たちが使う的外れな意見である。そうするのは、誰かに責任を負わされたり、自分の行動や信念を正当化しなければならないことを避けるためだ。殺人者や強姦者、児童虐待者などもそろって「こうしろ、と指図するなんて何様だ?」と言うだろう。マイケル・シャーマー [アメリカ出身のサイエンスライター] は次のように述べる:

「ただ単に道徳的な信念を主張するだけでは、もはや受け入れられることはない;その理由は、合理的な議論と経験的な証拠に基づいたものでなければならず、そうでなければ無視され、拒絶される可能性が高いのです」

この言い訳の提案者にさらなる反論と一般化した反生殖的な倫理観を突きつけるためにも、会話を速やかに本来の問題に戻す必要がある。もし会話がいまだ修復可能であれば、次のように続けられるだろう。

「私があなたに何をすべきか説こうとしているように見えたのなら、申し訳ない。私がやろうとしているのは、このトピックについて、あなたがこれまでに出会ったことのないような考え方を提示することです。違和感があるのはよくわかります。私がこの話題について話したほとんどの人は、まったく異質な考えだと感じていました。ですが彼らが分かったのは、時間をかけて真剣に考えれば、(反生殖的な倫理観のことが)何となく納得できるようになったということでした。反出生主義の中で、あなたが今、最もわだかまりを感じている部分は何ですか?」

この時点で、あなたは相手に別のことを考えるように仕向け、さらなる話に進むことができるだろう。

#24

でも、君もいつかは転生するじゃないか。だからもし君が個人的に子供を残さなかったとしても何も変わらないよ

ならば、そのような状況にあるとし、議論を進めるために輪廻転生が事実正しいと仮定してみよう。仮に輪廻転生が正しいとすれば、なぜ何度も何度も存在してしまうことに対して無関心でいられるのだろうか? 議論の余地がないことだが、人間が誕生するときにはその者の幸福は運次第であることも知っている。生まれてくる者は自身の幸福をどうこうできない。ある者が生まれ、短い人生の中で、本当に耐え難い苦しみを味わうことになるかもしれない。したがって、輪廻転生の枠組みの中でも、永遠に人生の肉挽き器に苦しめられる感覚の器の数を、できる限り減らしたいと思うのではないだろうか? 転生して再び存在する者の数が減れば、児童虐待の被害者や重度の障害を持つ者、若くして餓死する者などの存在も減る。

テュパック・シャク―ルはこのように言っている。

「私が死を恐れるのはただ輪廻によりまた存在に戻ることのみである」

トゥパックが反出生主義者として言ったかどうかは別にして、この言葉は要点を突いている。いったい誰が、常に存在へと投げ出され、その都度、射線上にカエルのように運ばれることを望むだろうか? 私たちはこのようなことが起こらないようにして、銃弾が命中する可能性を減らすべきである。

#25

それは危険思想だ!軽々しく口にしない方がいいよ。

まず私たちが最初に認識しておかなければならないのは、反出生主義の哲学というものそれ自体は危険ではないことである。反対に、危険なものとは生命や新たな感性的主体を生み出すことである。非存在は危険だろうか? いや、違う。なぜならば、それらが危険にさらされることはないからである。新たに生命を産み落とすこと—楽観的バイアスによる盲目状態の中で—は、世界中に存在する多くの危険(戦争、病気、レイプなど)に拍車をかける。新たに生命を創り出すことによって、その危険へとさらけ出すことになるのだ。仮にその危険を被る者がいなくなるとすれば、危険なことなど何もないではないか!

とはいえ、さらに認識すべきは、悪を実行するために人間は哲学を歪め操作するものであり、それは反出生主義においても実際に行われたということである。しかし、それは反出生主義の哲学それ自体を不正にするものではない。歴史を見れば、抑圧や暴力を必要とせずそれを助長しない原理や哲学に導かれたとしても、その導きにより善意か悪意のどちらかで行動したとしても大きな苦しみを生み出しかねないことがわかる。例として平等の原理を見てみよう。私たちの多くは、この原理を性別、人種、国籍などの恣意的な特徴にかかわらず、誰もが法の下で平等な機会を得るべきものであると考える。この原理は、全体主義的な政党が結果の平等を強制しようとした場合に歪められる。それは結果として極端に抑圧的な体制につながる可能性があり、実際にそうなってきた。

#26

私たちが世界に生み出した芸術や美しさはどうなるの?それがすべて失われてしまうじゃないか!

人間は美しい建造物や芸術作品、音楽や文学を生み出してきたが、美は見る人の目の中にあるものだ。物体それ自体が保有する内在的な「美」など存在せず、美とは私たちが物体に対して持つ単なる知覚に過ぎない。私たちは特定の音、味、感覚、そして光景から喜びを得ることができ、生きている間はこれらに囲まれている必要がある。しかし、生まれてくる前にそれを味わいたいという欲求を持たないのと同じように、一度でも私たちが死んでしまえばそれらを味わおうとする欲求は生じない。したがって、もし人間がいなくなってしまえば、それは素晴らしい作品を鑑賞する者は存在しなくなることを意味するが、それは決して損失ではない。生きているときには十分に作品を味わう機会があり、誰も存在しなくなったとしても……そこに損失を被る主体は存在しない。

忘れてはならないのは、美しい創造物を目にすることができない瞬間を苦痛に感じつつ、生まれてくることを待つ子供がひしめく冥府のような世界が存在するわけではないことである。生まれていない者はただ存在しないだけなのだ。

また、人間が生み出した悪についても考えてみよ。ガス室も、爆弾も、銃弾も、ナイフも、奴隷船も、すべて人間のせいで存在しているのである。芸術作品が存在することよりも、これらのものを存在させない方が重要なのだ。

#27

あなたに何か問題がある。君は子供を作る相手がいないからただ嫉妬しているだけだよね?

この言い訳を言うものは——アドホックどころか全くひどいものだが——何とかして反生殖倫理と格闘しようとしていると見受けられる。少なくとも反生殖の議論に対して反論をしようとしているのだろう。

しかし本当のところは、反出生主義者は他の人間と同じであり、デート、交際、性的交流に関して、さまざまな能力や好みを持っている。出生主義者のインセル(強制的に独身を貫く人)もいれば、完全にモテる(恋の魔法のかけ方を知っている人である)反出生主義者もいる。このような個人攻撃は、おそらく無意識のうちに、目前の道徳的問題から想像上の「未熟さ」というメッセージに焦点を移そうとしたのではないだろうか。これは、相手の主張に対して知的に反論するのではなく、相手を委縮させて嘲笑しようとするものだ。予想通りの反応で、アーサー・ショーペンハウアーの言葉を彷彿とさせる。

「すべての真実は3つの段階を経る。最初にバカにされ、次に強硬な反対にあい、最後にわかりきったこととして受け入れられる」

これは議論する者の反応を文脈に沿って説明する興味深い引用だが、今のあなたにはあまり役立たない。この「言い訳」は論点のない人格攻撃であり、あまり真剣に受け止める価値はない。侮辱と受け取らないようにせよ。会話の生産性を維持するためには、自分を卑下する(あるいはそのような関係にある場合は相手を卑下する)ちょっとした冗談を言って、ちょっと笑って、次に進むのが一番いいだろう。

#28

でも、赤ちゃんはかわいいじゃないか? この子たちは愛らしいんだ!

その通りだ。ヒトは幼い子供を(ほとんどの場合)かわいいと感じるように進化してきた。そうすることで、子供に注意を向け保護を与えるのである。しかし、子供をかわいいと思うからといって、私たちの人生における付属品として存在する単なるおもちゃにしてはならない。誰かがかわいく、思わず笑ってしまったり、心が温かくなったりするからという理由だけで、その者を存在させるべきではない。かわいらしさというものは本質的な道徳的問題から目を背けさせる表面的な気晴らしであり、それは、感性的主体を新たに存在させるときの個人的責任を自問しなければならない深刻な倫理的問いからも目を背けさせるのである。

最後に述べておくことがある。それは、生殖に反対する者は子供を憎んでいるわけではない。反出生主義者の多くは子供が好きで、もちろん子供の幸せを願っている。

#29

でも、君はただ子供が嫌いなだけじゃないか

生殖に反対する人が、子供を憎んでいるということでは決してない。また、世の中には子供が嫌いな人もいて、その中には反出生主義者もいるだろうということも言っておかなければならない。しかし、子供を殴ったり、売買したり、過度に𠮟りつけたりする人たちのことを考えてみて、彼ら全員が反出生主義者だと思うだろうか?あるいは、その過半数がそうだと思うだろうか? 私はそうは思わない。全ての人間は個人である。つまり、反出生主義者の幾人は子供を愛するだろうし、軽蔑している者や無関心な者もいるはずなのだ。生殖の道徳性を考える際に子供が好きか嫌いかは問題ではない。

実際には、哲学としての反出生主義は、子供が親によって賭けに供されることや危害の射線上に立たされることを回避しようとするものである。この世界の子供達が直面しているリスクやその結果として生じる虐待を全て考えてみよ。子供を生むかどうかを決めるときに、どれだけの親が子供の将来の幸福を真剣に考慮するだろうか(真剣に考慮したからといって子供を生むことが倫理的になるわけではない)? 反出生主義はリスクを嫌う者であり、罪のない個人を賭けることはしないのである。

反出生主義者が確かに子供を憎んでいるとしたら、子供を人生の射線へと押し出したいと願い、子供の苦しみを喜ぶのだろうか? しかし私はそのようなものは見たことがない。むしろ逆である。

#30

こんなこと議論しても意味がないよ。だって反出生主義者が死んだら反出生主義も消滅するじゃないか。

この言い訳の背後にある考えは、思想や倫理的原理は遺伝系統を通じてのみ伝わるというものである。この考えには一理あるが、大部分は間違いである。(確証があるわけではないが)価値や原理というものは親から子供に伝えることができるというのは一理あるが、そのやり方は価値観、原理、倫理的信条を取り入れる方法としては効率的ではなく一般的でもない。それらは主に経験、対話、(特に今のようなネット時代には)新しい情報に触れることで伝えられ、取り入られるのである。例えば動物権利運動を例にするならば、この運動のなかで非常に多くの人が、ドキュメンタリーを観たり、議論をしたり、様々な経験をしたりすることで動物の権利の正当性を認識するようになった。しかしその人たちは動物権利を支持する親のもとに生まれてきたわけではない。

そう、正義のための運動——リベラルフェミニズム、市民権、動物の権利——に携わる者は今も昔も、生物学的な子供を持って価値観と信条をゆっくりと伝えることが可能である。しかし、反出生主義運動に携わる者は子供を養子にして面倒をみることができる。生物学的な親が、自身の子供が持つ価値観に影響を与えようとするのならば、養子の親も同じことをすることができる。

#31

他人を存在させるのに本人の同意は要らない。同意したり拒否したりする主体がいないんだから。

この言い訳を持ち出す人が主張している――または少なくとも無意識のうちに前提としている――ことは、明らかに直接的で重大な影響を他者にもたらす行動を、その者の同意なしにしてもいいということだ……それも、そのようなことをする必要が全くないにも拘わらず、だ。本質的には、このようなことを言うと、同意を得る手段がない場合には同意を得る義務が消え失せるのだと主張していることになる。

生殖を同意という側面から考えてみよう。ある人が生殖をしない場合、生殖によって生まれ得た者に危害がもたらされるリスクは皆無だ。対して、ある人が生殖する場合、生まれる者は大きな危害を、それも往々にして本人や親のコントロールが及ばない危害を被る危険に晒される。その危険を避けようと思えば、大きな犠牲を払って存在をやめるしかない――多くの人は安楽死技術を利用することができないため、自殺しなくてはならないのだ。他者をそのような状況に置くことの同意がとれないのであれば(生まれていない人から同意をとることは例外なく不可能だが)、それが生まれた者に選択の余地もなく押し付けられるという結果に繋がる行動をするべきではない――とりわけ生殖に関しては、生まないというもう一つの選択肢が何のリスクも伴わないのだから尚更だ。自分自身を大きな危害を被る危険に晒すのは個人の自由だ。しかし我々は、他者に同じことをできる立場にない。生殖によって他者にそのようなことをする必要がない上に、そうしないことを選ぶのに何の障壁もないではないか。

同意に関して言えば、生まれ得る者が未だ存在していないという事実は重要ではない。生殖という行為が生まれる者に明白に直接的かつ重大な影響を及ぼすことは分かっている。したがって、その生まれる/生まれ得る者が目の前にいてもいなくても、我々はその者に対する義務を負う。

実際のところ、この言い訳で生殖を正当化しようとする人々自身でさえ、まだ生まれていない子供のために何ヶ月もかけて準備を整えるではないか。その子供がまだ存在していないにも拘わらず、彼らに対して義務を負っていることを認識していることの証だ。

#32

子供を持たないなんて、神にでもなったつもりか?

「神にでもなったつもり」とはどういうことだろう。通常この表現は、他者の生命や自分に関係ないことをコントロールしたり何らかの影響を及ぼしたりしようとする者について使われる。これについては2つ言うことがある。

1つは、この言い訳が「神になったつもり」になることは悪いことなのだと示唆しているということだ。なぜそれは悪いことなのだろう? 確かに、個人や集団による他者への極悪非道で不当な介入というものはある。しかし、非常に善い介入というものもあるではないか。例えば、山で遭難して飢えている人々に出会った場合、水や食料を与えて「神にでもなったつもり」で彼らを助けないだろうか。我々は「神になったつもり」で行動するべきだろうか、それとも成り行きに任せて出来事が起こるのを待つべきだろうか? ここまで考えれば明らかに、「神にでもなったつもり」で何かをすることそれ自体が悪いわけではないと分かる。善いか悪いかは、「神にでもなったつもり」でいつどのようなことをするのかによって決まる。

もう1つは、この言い訳が示唆するように「神にでもなったつもり」で為されることは悪いのだとあえて仮定すれば、生殖こそが「神にでもなったつもり」の行為だということだ。生殖をしないことがどうすれば「神にでもなったつもり」ということになるのだろう。神の如き力で介入する相手がいないではないか――未だ存在しない子供たちが冥界のようなところにいて、我々が生殖しないことによって彼らが存在への門をくぐることを拒んでいるというようなことはないのだ。その一方で、生殖とは、人が他者にできることの中で文字通り最も重大なこと、すなわちその者を作り出すという行為だ。作られる者は、その能力を自身に対して行使するように親に頼んだわけではない。親が生殖で作るのは自分の人生ではないのだ。生殖をしないことではなく、することこそが「神にでもなったつもり」の行為である。

#33

生殖したい人を全員思いとどまらせることなんてできないよ。

公正を期すために言うと、この言い訳の内容は本当かも知れない。現実は完璧ではないし、人類の倫理的な進歩が都合よく進むようにできてはいない。生殖に関してパンドラの箱が開かれて、我々は完全には解決することのできない問題に取り組み始めてしまったのかも知れない。反生殖主義的な社会運動の最終目標が――それが何なのかは人によって違うかも知れないが、何であるとしても――達成されない可能性はある。しかしながら、それでもなお、この言い訳には2つの重要な問題がある。

まず、これは何もせずにいることの言い訳にはならない。ある問題を完全に解決することができない可能性があるからといって、完全に諦めて部分的な解決を試みることさえしないでいいということにはならない。この論理を他の状況に当てはめてみれば、この言い訳のおかしさに気付くことができるだろう。例えばある人が、飢餓の問題について何の対処もしない理由として「飢える人が1人もいなくなるなんてことはあり得ない。飢餓の根絶は無理だ」と言っているとしよう。この人は恐らく(当然のように)冷笑を浴びて部屋から追い出されることになる。

また、これは問題を悪化させる言い訳にもならない。ある問題を完全に解決することができないということは、その問題の規模や強度を上げて問題を助長する理由にはならない。先程と同じ例を用いるならば、飢餓に苦しむ人々が食料を得ることをさらに難しくするようなことを意図的にする理由(や言い訳)として「飢える人が1人もいなくなるなんてことはあり得ない。飢餓の根絶は無理だ」と言っている人がいるとしよう。この場合でもまた、この人は冷笑を浴びて部屋から追い出されることになるだろう。

#34

誰もが養子をとれるわけじゃない――金がかかるんだよ!

この言い訳は誤った二分法を含んでいる。この言い訳を持ち出す人は選択肢が2つ――養子をとるか、生殖するか――しかないかのように思い込んでいるようだが、実際のところそうではない。子供を育てない、持たないという選択肢もあるのだ。子供が欲し(く、何らかの理由で養子をとれな)いということは、生殖の白紙委任状にはならない。このような自己弁護は、代替肉や植物性ミルクのような代替食品を使えない、または使いたくないからという理由で有感生物を殺して食べることを正当化しようとする試みに似ている。倫理的に善い方法で欲求を満たすことができない、あるいはそうすることを拒否するのであれば、残念だが欲求を満たすことは諦めてもらわなければならない。満たされない欲求があるのは本当に嫌なことだが、現実世界は我々を満足させるために都合よく動いてはくれない。我々は、自身の欲求を満たすために他者に対して倫理的に善くないことをするわけにはいかないということを認識しなければならない。もちろん、我々反出生主義者はこのことを生殖肯定論者に伝えるにあたって冷淡になり過ぎるわけにはいかないが、それでも断固とした態度を崩してはならない。

だがひとまず、この言い訳そのものに答えることにする。養子をとることは本当に生殖より高くつくのだろうか? 妊娠中の医療費/食費、また出産に由来する経済的な負担など、生物学的な子を持つ場合にのみかかりそうなコストはありそうだが、実際のところ個々人の状況によって異なるというのが正確な答えになるだろう。どのような養子縁組制度が利用できるのか、どれほどの資金をすでに持っているのか、生活状況はどうなのか、共に子育てをするパートナーはいるのか、養子縁組にあたって自治体から補助金を受け取れるのかなど、様々な要素がある。個人の生活にそれぞれの要素がどう現れるのか知る術がない以上、実体験に基づいてこの問いに答えようとすることさえ無意味なのかも知れない。

恐らく、生殖倫理の議論の本筋から外れて実体験に関する議論に陥るよりも、最初の段落のような理論の話に留めておくことの方が効果的だろう。

#35

君自身が子供を持たなければいいだけの話じゃないか。他人に説教するのはやめろ。

これは生殖を肯定するための言い訳というよりも、生殖することが倫理的に何を意味するのかを批評的に考える責任から逃れようとする無意識的な試みだと言えるだろう。生殖には倫理規範が及ばない、または生殖は倫理的に善いという自らの世界観の根幹を揺るがし、彼らがしようと思ってきたこと(生物学的な子を持つこと)を倫理的な誤りとする議論/情報/観点を提示されたのだから、このようなことを言うのも当然ではある。

ところで、そもそも反生殖主義的な倫理を広く主張する理由は何なのか。その答えは他のあらゆる形での倫理的な進歩――(人間と人間以外の)奴隷制の廃止、人種差別的な法令の廃止など――と同じだ。今我々が主張しなければ、進歩は起こらないかも知れない。あるいは、進歩が起こるとしても、長い時間がかかることになるだろう。生殖しないという選択それ自体は善行ではない。善いことも悪いこともせず、積極的に問題を助長することをしないという選択だ。良い変化を起こして進歩に貢献したければ、我々は(できる範囲で)積極的に反生殖主義的なメッセージを発信しなければならない。

とはいえ、この言い訳は別の有効な問題を提起する。この言い訳が持ち出されるところまで来たということは、恐らくここまでの会話はあまりうまくいっていない。ここで問われるのは有効性だ。我々は反生殖主義的なメッセージを発信しなければならないが、それをどう行うかについては熟慮が必要だ。大多数の人々はすでに反生殖主義的なメッセージを過激なものとして認識しているため、我々は活動家として、聞く耳を持たずに拒絶される可能性を高めるような方法を避けてそれを伝えたいものだ。しかしながら、どうすれば効果的に発信できるかについては、この運動に取り組む我々の間で話し合わなければならない。このハンドブックのようなものが単純に規定できるようなものではない。

#36

人類が絶滅しても、その後に他の文明や生物種が他の場所に現れるかも知れないよ。

確かに、人類のいないところに文明や有感生物が存在する可能性はある。野生動物の苦境を緩和するために人類が存続期間を延ばすべきか否かという議論があるのと同様に、地球外の倫理的な問題に対処するために人類が存続期間を延ばすべきか否かという議論もあり得る。これは議論する価値のある問題ではあるが、地球上の苦痛に対処することと地球外の苦痛に対処することには大きな違いがあるように思われる――(1)地球上に苦痛を経験する者たちがいることは分かっているが、地球外についてはそうではない、そして(2)人類がこれから何世代もかけて相当な技術的進歩を遂げなければ、地球外の者たちの苦痛に対処することはできないであろうと思われる(地球外にそのような者がいれば、の話だが)、という2点だ。

それはともかく、この言い訳を持ち出す人の真意――利他的に他者を助けるという視点を持たない生殖の正当化――を考慮して、この言い訳の論理を見てみよう。この理屈は結局のところ、「ある行為が為されている、あるいは為され得るから、私が今ここでそれをすることも正当化される」というものだ。生殖以外のことにこの理屈を当てはめて考えてみよう。例えば私が「私はこの子を虐待するのをやめる必要はない。別の場所、別の時間で他の人が他の子供を虐待するだろうから」と言えばどうだろう。確かに別の場所、別の時間で私以外の誰かが悪行をするだろうが、それよって私が今ここで同じことをすることが正当化されるということはない。どこか遠くで起きていることは、近くで起きていることに対処する責任を捨てることの免罪符にはならないのだ。

#37

人生には良い面も悪い面もあるものだ。悪いことがあるからこそ良いことに感謝できるんだ。

この言い訳を使う人は、我々が人生で経験するポジティブな物事に感謝することができるのはネガティブな物事のおかげなのだという理由によって、ネガティブな物事を他者に押し付けることは正当化される、または全く悪いことですらないと主張しているようだ。しかしながらこの言い訳は、そのポジティブな物事を経験させてくれと頼んだ者などいないのだということを見落としている。存在しない人々がポジティブな物事を経験したいと思っているわけではないのであれば、ポジティブな物事を経験させるという目的で彼らにネガティブな経験を押し付けることがいったいどう正当化されるのだろうか?

この言い訳を使う人が認識していながらあえて無視していることは、人生とはある人が別の人を使って遊ぶロシアンルーレットのゲームのようなものだということだ。確かに人生にはポジティブな経験もネガティブな経験もあるが、回転式拳銃のシリンダーを回してその銃身を他者の頭に突きつける資格が自分にあると思っているのだろうか。また、「ポジティブな経験を豊かなものにしてあげているのだから」と言って彼らの苦しみの原因を作ったことの責任を逃れようとするとは何様のつもりなのだろう。これは、莫大な苦痛を経験する可能性のある所に他者を送り出し、その者のためにそうしているのだと言って無謀で非道徳的な行いをごまかすことで欲望を満たすために人々が使う、誤った言い訳である。

人生は福利に関わるリスクと妥協の連続だが、それは誰も自らに押し付けられることを望まないリスクと妥協なのだ。子を作ることとは、必ず苦痛を伴う何らかのプログラムに我々がその子の名義で申し込むようなものだ――その子本人の意志は関係なく、その子が苦しむことを我々が勝手に受け入れて、我々が契約書に署名するのだ。

#38

人生が悪いものかどうかなんて分からない。生きる価値のある人生かどうかは個人がそれぞれ決めることだ。

この言い訳を使う人は、人生と生殖の区別ができていない。この言い訳はつまるところ、人生が生きる価値のあるものか否かは本人が決めることなので、我々が他者の人生が悪いものか(生きる価値のないものか)知る術はない、という主張だ。確かに、ある人が今生きているのであれば、その人の人生が生きる価値のあるものかどうか決めるのは本人だ。しかしそれは、我々が生殖(することによって、生きる価値のないものになる可能性のある他者の人生を開始)して良いのかどうかとは全く別の問題である。

問われるのは新たな有感生物を作り出すことの倫理だ(当然それ以上のニュアンスがあるが、ここで扱う必要はない)。一部、あるいはほとんどの人々が主観的な評価の結果として自分の人生を生きる価値のあるものと判断するということはさほど重要ではない――ここでは気前よく99%の人々が自分の人生を生きる価値のあるものと判断すると仮定してみよう。誰もがそもそも存在し始める必要がなかったこと、また我々が存在させ始める個々人の誰もが(主観的な評価によって)自分の人生が生きる価値のないものであり苦痛であると判断する1%になり得ることを考えれば、損害を被ることになると分かっている新たな有感生物を絶え間なく作り出したりそのような行為を支えたりする資格が我々にあると言えるだろうか。この人々が全体のわずか1%であることは、これもまた重要ではない。残りの99%の人々も、作られる必要はなかった(し、作られたいと思うこともなかった)のだ。さて、この99%の人々の存在は、それでも人生を生きる価値のあるものと思えない1%の人々を作りだすことを正当化できるだろうか?

#39

我々が生殖をやめてしまったら、我々をここまで導いてくれた先祖の払った犠牲が無駄だったことになってしまうよ。

この言い訳は面白いものだ。これを使う人が言いたいのは、我々の祖先が人類存続のために苦難を乗り越えてきたのだから、我々は人類を存続させる責任を彼らに対して負っている、ということだ。まず1つ目に、我々の祖先はもういない。彼らは死んでいるのだ。彼らが自動車やインターネットの存在を知らないのと同様に、人類が存続するにしてもしないにしても、彼らには人類に何が起こるのか知る由もない。

2つ目に、この言い訳は、我々の祖先がしてきたことが何らかの偉業であると示唆している。もちろん、過去に多くの人々が偉業を達成し、他者の生活をより良いものにしてきた。そのことに関して彼らは評価され、記憶されるべきだろう。しかし、人類を存続させてきたことは偉業とは言えない。莫大な数の人々(と動物たち)がその過程で拷問され、殺されてきた。そうして我々は死体の山の上に立って「見て、iPhone を手に入れたよ」と言えるようになったのだ。人類の歴史の中で、今の我々は選択できる立場にある。生殖することとは、作られる必要のない欲求を作り出すことだ。もちろん、今生まれる人々が味わう苦痛は(多くの条件によるが)200年前に生まれた場合よりも少なくて済むだろうし、彼らの欲求はよりよく満たされるだろう。しかし、その欲求はそもそも存在する必要がなかったのだ――何と無意味なことだろう(存在に伴うリスクを考えれば危険でさえある)。

3つ目に、気候変動など地球システムへの影響によって、人類は自らを絶滅に追い込もうとしている。この言い訳を使う人が(祖先の払った犠牲を理由として)本当に人類の存続を望むのであれば、地球システムへの影響を抑えるためにそもそも生殖しないことを選ぶはずだ。

#40

子供を持たないのはただの流行りだ。他の流行と同じようにそのうち廃れて、人々は普通に戻ることになるよ。

この言い訳は、実際のところ生殖を正当化するための言い訳というよりも、倫理的な問題としての生殖を軽視する方法であるという点において奇妙なものだ。反生殖主義的な社会運動を最新のテレビゲームと同類の流行として矮小化することは、無根拠で軽薄な感情論であり、他のあらゆる真剣な倫理的社会運動(リベラル・フェミニズムやアニマルライツなど)に対しても使うことができてしまう(し、実際に使われた)。

この言い訳を使う人は、恐らくその主張を支える根拠を示さないだろう。故クリストファー・ヒッチェンズはこう語った。

「根拠もなく主張されることは、根拠なしに斥けることができる」

だが、ひとまずこの言い訳が主張することを見てみよう。反生殖主義的な思想は新しいものではなく、1000年以上の歴史を持つ。一例として、アブー・アル・アラー・アル・マアッリー(973–1057)は反生殖主義的な立場をとる哲学者だった。彼の言葉で最も有名なものの一つがこれだ。

「これは私の父が私に対して犯した罪であるが、私はこの罪を誰に対しても犯していない」

反生殖主義的な思想がこれほど長い期間にわたって存在し、それに賛同する人々が近年さらに増えているという事実は、これがただの流行だとは言えず、これからも残り続けることを示唆している。

#41

でも、私は天国で子供と一緒にいたいんだ!

この言い訳は明らかに自身の欲望の追求における他者の軽視に根差しているが、我々はこの言い訳を使う人々に対してまずは共感を示すべきだ。どのような形であれ天国の存在を信じるのであれば、そこで愛する人々に囲まれていたいと思うのは無理もない。とはいえ彼らは、この目的を達成する方法、すなわち生殖が避けようのない多大な損害を残す可能性を見逃している。

避けようのない損害とはどのようなものか。存在を開始されてしまった者が味わうことになるかも知れない(し、実際に味わうことになる)あらゆる恐怖を考えてみよう――少し間違えれば永遠に地獄(恐らくこの言い訳を使う人の世界観では地獄も存在するものとされるだろう)で過ごすことになるという可能性は言うまでもない。他者を存在させなければ彼らが地獄――考え得る最も恐ろしい場所――に落ちる可能性はないというのに、自身の欲望を満たすためなら他者を存在させてそのような可能性に晒すことも厭わない、ということがどういうことか考えてみるといい。最低でも激しい苦痛を避けるため、うまくいけば親の利己的な欲望を満たすために、乗り越えなければならない一連の試練(具体的にどのような試練かはそれぞれの信仰によって異なる)を与えるのだ。我々は皆欲望を抱くものだが、それを充足させる過程で他者を無視してはいけないということを理解しなければならない。欲望を満たされないままにしておかなければならない時もある。

これに加えて覚えておくべきことは、誰かを「天国への道」に導くという考えにそれほどこだわる人には、養子をとるという選択肢があるということだ。その人の目から見れば、養親を必要とする子はすでに地獄に落ちる可能性に晒されているのだから、自分の利己的な欲求を満たすために新たな子を作って「天国への道」を歩むことを強いるよりも、孤児を養子にとって天国へ導くことの方が望ましいはずだ。地獄に落ちる可能性のあるすでに存在している者たちを救う手段がある(この人の目から見れば、の話だが)のに、わざわざ地獄に落ちる可能性のある――そして生きている間に地球上で苦しみを経験する可能性のある――者をどうして新たに生み出す必要があろうか。

#42

我々が生殖をやめると、他の集団に侵略されて支配されてしまう。そんなことは絶対に阻止しないといけない!

この言い訳は出生主義に基づくものではなく、この言い訳を使う人が他の集団に対して持つ疑念や嫌悪に基づくものであるため、厄介だ。この人にとって、生殖は集団による支配の手段なのだ。その集団とは宗教、国籍、教育水準、経済状況、その他の様々なもので成り立ち得る。この言い訳に対処するためには、根底に潜む疑念にまず対処しなければならないのかも知れない。それでも、(大抵の場合は)いくつか言えることがある。

  1. 生殖は必須ではない:ほとんどの集団は自発的に参加するもの(考え方、行動の仕方、趣味などで成立する集団)であり、その集団に属するかどうかについては選択の余地がある。このような集団に関しては、生物学的な子を作ることは新たなメンバーを迎え入れる唯一の方法ではないし、特に効果的な方法であるわけでもない。実際のところ、既存の人々に影響を与えて集団に引き込もうとすることの方が、新たな人を作ってその人に影響を与えようとするよりも効果的であるように思われる。

  2. 生殖は何の保証にもならない:生殖は、生まれた子が親と同じ道をたどって同じ集団に自発的に所属することを保証するものではない。

  3. 養子縁組の方が優れた選択肢である:生まれる子(に限らず誰でも)を政治的なゲームの駒や道具として扱うべきではないが、そのような扱い方を許容するのだとしても、生殖はその手段としてやはり無意味だ。養子縁組にも同じ不確実性(子への影響が成功するかしないか)はあるが、その養子を他の集団の影響から遠ざけることができる(養子にとらない場合と比べてその子を取り巻く環境をコントロールしやすくなるため)という点は生殖では得られない「ボーナス」だ。

もちろん、他者に影響を及ぼすことでメンバーを増やしたり減らしたりすることができず、生殖でしか新たなメンバーを増やすことができない集団はある(例えば人種など)。したがって、やはり他の集団に対する疑念それ自体に対処しなければならない。

#43

存在しないことの方がいいかどうかなんて分からないじゃないか。

この言い訳が主張するのは、我々にはある一つの状態(存在)についての確実な知識はあるがもう一方の状態(非存在)についてはそれがないため、新たな者たちを存在させることによって彼らをはるかに悪い「かも知れない」状態(非存在)から救い出すことは妥当だということだ。当然ながら、この主張は(主張する者が何を真実だと思っているのかは関係なく)単純に反転して使うことができてしまう――はるかに悪いかも知れない状態(存在)から非存在者を守るために彼らを非存在のままにしておくことは妥当だ、と。この言い訳そのものを見てみると、どうやら以下の2つのどちらかを主張しているらしい。そして、そのどちらに対しても反論が可能だ。

  1. 存在しないということはそれ自体悪いことだ:この種類の言い訳は、非存在とは何なのかということの勘違いに由来するようだ。非存在とは単純に何もないということであり、非存在それ自体が悪くあるためには、非存在が経験されてしまった場合に嫌だと思われる必要がある。しかしながら、非存在が経験されるためには、それを経験する存在者がいなければならない……そうなるともうそれは非存在であることができなくなる。

  2. 存在は非存在よりも良い:存在と非存在を比べてみよう。存在という状態には、2つの基本的な要素があると言える――好ましい物事(良い物事)と好ましくない物事(悪い物事)だ。一方で、非存在という状態には悪い物事はない――これは良いことだ。また非存在という状態には良い物事もないが、これは悪いことではない。というのも、非存在者は存在しないので、その「良い物事」を経験したいと思ったり経験し損ねたりすることがないからだ。非存在という状態にあれば欠乏や欲求を持つことはなく、不健康になることはないし空腹になることもない――実際のところ、存在という状態こそがあらゆる悪い物事の原因なのだ。非存在という状態は、その悪い物事を全て取り払う。

トーマス・リゴッティはこう言った。

「非存在は誰も傷つけない。存在は全ての人を傷つける」

死者に「安らかに眠れ」と言うのには理由がある。非存在は平安なのだ。

#44

反出生主義は反女性的で、反フェミニズムだ。女性に自分自身の身体の使い方を決めさせないとは何様のつもりだ?

この言い訳は本質的には「生殖は個人の自由だ」というものだが、女性に関するひねりが加わっている。その主張は、反出生主義は女性に自分自身の身体の使い方について指図するが、身体の使い方は個人の自由であるはずなのだ、というものだ。

この言い訳の前半について言えば、反出生主義は女性に身体の使い方について指図しようとしているのではなく、単純に女性(に限らずあらゆる人々)に自分の行為(特に生殖)の倫理的な影響を考えさせようとしているだけだ。後半については、確かに、性別にかかわらず自分の身体に何をしようと個人の自由だ。しかし、生殖とは自分だけではなく他者の身体をも巻き込む行為であるため、そこには倫理的な問題が発生する。自分自身の身体については何をするのも自由だが、自分自身の身体を使って他者を作り出し、その者の人生でギャンブルをするとなると、それは個人の自由ではない。それは他者に成り代わって勝手に選択をすることであり、必ず倫理的な精査を受けなければならない行為だ。

もう一つ言っておくべきことは、生殖しないことは女性にとって非常に大きな利益になる可能性があるということだ。妊娠すると、基本的に女性があらゆる苦労を背負うことになる。出産後も、(その善し悪しは別として)多くの場合女性が全面的に子育てを担うことになる。子がいなければ、時間とエネルギーを子育てに吸い取られずに済み、代わりにそれを自分がしたいことに費やすことができるのだ――子を持つと、自主性も選択肢も奪われることになる。

最後に、非存在こそが女性が直面する様々な問題の唯一根本的な解決策なのだということに言及しておきたい。人々の存在を開始しないでおけば、存在する多くの人々が経験することになる苦痛、差別、支配の被害者になる者たちの供給を絶つことができる。反出生主義は、フェミニズムが解決しようとしている問題を抱えた世界に新たな被害者を存在させないようにすることで、フェミニズムを支援しているように思われる。

#45

反出生主義は宗教であり、カルトだ!

これは生殖を正当化するための言い訳というよりも、反出生主義を過激で馬鹿げた考えのように見せかけることで、反出生主義に出会った者はその支持者の言うことに関わらなくてもいい(言い換えれば、自身の世界観を揺るがすものに真剣に対峙しなくてもいい)と思うようにしようとする試みだ。

人がこの言い訳を使うことになる理由の一つとして考えられるのは、生殖が倫理的に悪いことであるという考えが単にその人の個人的な「オーヴァトンの窓」(Overton Window)から大きく外れているだけだということだ。しかし、単にその人が以前遭遇した反出生主義者に良い印象を受けなかっただけだという可能性もある。その場合、その人は反出生主義者に「カルト」や「宗教」などというレッテルを貼り、そのレッテルが心の中で哲学的な立場そのものに移ってしまった、というのが真相だろう。

もう一つの考え得る理由は、多くの宗教がしばしばその支持者の行動をコントロールするのと同じように、反出生主義者が人々の行動をコントロールしようとしているように感じられるということだろう。当然ながらこれは事実ではない。他のあらゆる倫理規範と同じだ。反出生主義が個人に求めるのは、自らの行動――生殖すること、または生殖を支持すること――の倫理的な影響を理解しようと努めることだ。これは他の倫理的な問題と全く同じだ:ある人に腹が立つからといって、その人を殺していいのか? 快楽を得るために人を殺していいのか? 嫌だと言われても誰かと無理に性行為をしていいのか? このような問いを立てることは他者をコントロールするための手段だと捉えられ得るが、実際には、単に人の行動の倫理的な善悪を問うているだけなのだ。

この言い訳には、筆者であれば以下のように質問することで対処する。反出生主義のどこがカルトらしいのか? 幾人かの反出生主義者の行動を反出生主義そのものと混同しているのではないか? ただ正直なところ、これは生殖を正当化しようとする言い訳ではなく意味不明の戯言でしかないので、会話を手元の議論に戻すのが恐らく望ましいだろう。

#46

もし私が子を持たなければ、私は死後に忘れ去られてしまう。私の生きた証が後世に生き続けるように、遺伝子を子に受け継がせないといけないんだ。

最初に言っておかなければならないことは、この言い訳は極めて利己的だということだ。誰も利己的な人になることなど望んではいないだろう。もう一つ言わねばならないのは、新たな人を作り出すという行為は、後世に名を残すという目的を達成する手段としては恐らくあまり効果的ではないということだ。

なぜこの言い訳は利己的なのか。何か功績を残したいと思うことそれ自体は(もしかすると多少の自惚れではあるかも知れないが)利己的とは言えない。しかし、その功績を築く手段として他者を作ることは利己的だ。自分の功績を受け継ぐための道具として子を作ると、功績が継承されるか否かは(少なくとも部分的には)その子次第ということになる。自分の目的のためにその子を危害に晒すことになるばかりか、その子に親の期待に沿う人生を送ることを理不尽に強いることになるのだ。作られた子は功績の継承者になりたいと望んですらいないのに、(1)自分自身の望みは関係なく親の期待に応えなければならないという精神的な重荷を背負って生きることになってしまう。あるいはそうでなければ、(2)親の希望を無視して生きたいように生きる、ということになる。これらはどちらも、親子が別個の人格であることを考えれば、その子を作った者が「己の功績」の扱われ方として望ましいと見なすことのようには思われない。

注:他者を自分の目的達成の手段と見なすことは望ましいことではないし、養子縁組は養子を取る側ではなく取られる側のニーズを中心としてなされるべきことだ。それでも、もし自分の遺産を誰かに受け継いでほしいのならば、そもそも他者を作る必要はない。養子縁組も有効な選択肢だ。

なぜ子を作ることは遺産を残す手段として効果的でないのか。大多数の人々が子を作るが、それでも彼らは時とともに忘れ去られてきた。それなのにあなただけは人を作ることで記憶に残りやすい(あるいは忘れられにくい)人物になれるというのだろうか。たとえ子供が偉業を成し遂げて有名人になっても、その親は我々の記憶に残るだろうか。親自身が別のことで有名でない限り、そうはならないだろう。ほとんどの場合、記憶に残る人々が忘れ去られずにいる理由は、他者の状態を改善したことか、偉業を達成したことか、あるいは極悪非道の残虐行為に及んだことだ。もし後世に遺産を残したいのであれば、時とともに忘れ去られるであろう無名の人をもう一人作るよりは、他者を助けることによってその遺産を自分自身で作り上げる方が良いだろう。

#47

君の考え方はあまりにも白黒思考で絶対主義的すぎる。「生殖はいかなる場合にも悪だ」なんて言えないはずだ。

他のあらゆる倫理的問題と同様に、生殖倫理にもニュアンスというものがある。生殖に批判的な立場がまるで現実世界に存在するニュアンスを完全に無視する頑固なイデオロギーであるかのように見せかけることでその評判を落とそうと試みる者(ちょうどこの言い訳を使うような人々)は、この問題に関する多様な意見に目を向けたことがないか、会ったことのある唯一の反出生主義者がたまたまイデオロギーに凝り固まった人だったというだけだ。実際には、全ての反出生主義者がそのような人であるわけではない。

反生殖主義的な倫理の話題を少し見渡しただけで、その細部に関して様々な意見の相違があることに気付くことができる。何が「白」で何が「黒」なのかについてさえ合意がなされていないのに、生殖に対して否定的な立場全般が「白黒思考」だとどうして言えようか。もし一人の人物が新たに生まれることで他の全員の苦しみが終わるのだとしたら、反生殖主義的な立場をとるほとんどの人々はその人を作るだろうか……恐らくそうだろう。もしくは、人生にはこの上ない幸福しかなく少しの不幸もない場合、人を作ることは許されるだろうか。許される、と答える反出生主義者は、多くないとしても確かにいるだろう。実際には、我々はそのような世界に住んではいない――現実世界には苦痛が存在し続けるし、新たな人を作るということはその人をそのような世界に放り込むということだ。それも、単に作る側の我々がそうしたいからという理由で。

さらに、多くの人々が絶対主義的な態度をとるであろう問題は数えきれないほどある――例えば児童虐待、性的暴行、拷問などだ。そのような人々は「白黒思考」をしているとは見なされないのに、どういうわけか生殖を否定的に見ることに関しては、反出生主義者は「白黒思考」をしているものとされる。これは、もっと注目されるべきものを(恐らく無意識的にではあるが)切り捨ててしまう軽率なやり方に見える。

#48

人生は押し付けられるものではなく、与えられた好機だよ。

(1)人生は押し付けられるものではない、(2)人生は好機だ、という2つのことを主張するこの言い訳について、言うべきことは2つある。

人生は押し付けられるものなのかどうかという点から考えてみよう。人生とは何なのかと言えば、それは欲求の連続である。そして、我々はその欲求のいわば入れ物として、それらを満たさねばならない。満たさなければ、その結果に苦しめられることになる。食べ物、水、住居、熱などへの欲求は、常にそれらを満たすための行動を必要とし、その行動をとらなければ我々は飢えや脱水、暑さや寒さで死ぬことになる。我々は、自らの生態から切り離すことのできない要素である欲求の入れ物に過ぎず、それらを満たすという目的を達成する手段を常に探し続け、(運任せで)それを見つけることを繰り返さなければならない。そればかりか、この欲求は絶対に十分な形で満たされることはない――我々は満腹になってもいずれまた空腹になるし、また喉が渇くし、新しい娯楽を必要とする。死が欲求を消し去るまでそれは終わらないが、(死が欲求の終わりを意味するにもかかわらず)死がいつか訪れるという見通しもそれ自体恐ろしいものだ。この状況、この難問に、我々は他人を引きずり込もうというのだ。人生――逃れることができず満たすための準備も不足している欲求の連続――は、間違いなく押し付けられるもののように思われる。

次に、人生は好機なのかどうか考えてみよう。好機とは言うが、いったい何をするための好機なのか。恐らくほとんどの人々は、「人生の驚異を体験するための好機」と言うだろう――ここでの驚異とは要するに「良い物事」(実際に経験された時、望ましいと判断されるようなもの)だ。他者が快楽を経験できるように他者を作ることを「好機」と呼ぶのは、筋の通った話とは思われない。というのも、その他者が良いことを経験したいと望むのは、その者に快楽を感じる能力(そしてそれを感じたいという願望)が備わってしまったからであり、それはそもそもその者が作られたことに起因する。誰かがXを必要とする、あるいは欲するように自分で仕向けておきながらそのXを与えることを「好機」と呼ぶのは合理的だろうか。そうとは言えないだろう。

#49

苦痛が悪いものだとは限らない。多くの人は悪い経験のおかげで成長する。

苦しみを経験することが人としての成長につながることは否定できないが、その成長が苦痛それ自体を正当化することはないし、苦痛を良いものにすることもない。

例えば、虐待を受けてきた人がそのおぞましい経験を糧として慈善事業を立ち上げ、他の多くの虐待被害者の支えになるということがあり得る。この人は、慈善事業の立ち上げと他の被害者の支援から大きな達成感を得られるかも知れない。それによってこの人の受けてきた虐待が正当化されたり「良いこと」になったりするだろうか? 当然そうはならない。虐待は間違ったことであり、恐ろしい経験だったということは変わらない。虐待を受けた経験に未来を台無しにされることなく、他者を助けることができるようになったのは、この人が単に幸運だったからだ。

これを聞いてもなお、この虐待の事例や他の事例において苦痛は正当化できるものだと(あるいは良いものだとさえ)信じ込んでいる人にはこう言おう。あなたが作り得る人はあなたではないのだから、あなたと同じ限界、能力、忍耐力を持つとは考えにくい。自身の欲望を満たすためだけに、多大な苦痛を経験することが確実な状況(すなわちヒトとして存在している状態)に他人を放り込み、その行いを「この子が耐えないといけない苦痛は実際には悪いものではないんだ。苦痛は成長に繋がるんだから」という主張で「正当化」しようとは、いったい何様のつもりなのか。苦痛がのちに何を生み出そうとも、苦痛は苦痛なのだ。

#50

我々の子に起こり得ることを恐れて安全地帯の中に留まる人生なんて駄目だ。人生の本質はリスクを冒すことにあるのだから!

この言い訳が示唆するのは、「反出生主義は損害を受けるリスクを減らす目的で個人の行動に非合理的な制限を押し付けるものである」「反出生主義者は人々に世の中のあらゆる悪への恐怖に震えてタンスの後ろに隠れながら生きてほしいと思っている」という見方だ。どちらの推測も間違っている。反出生主義はすでに存在する者たち(タンスの後ろに縮こまって隠れる者)への損害のリスクを減らそうとするものではなく、そもそも新たな者たちを作り出さないことによって、その者たちが損害を受けるリスクに晒されないようにする、というものだ。

一度存在し始めてしまった我々は、悪いことは起こるものなのだという事実を受け入れなければならない。個人として、集団として、この現実世界を生き抜いて互いの利害を調整し、リスクをできるだけ減らすのは我々の仕事だ。しかし他者を作るということは、そもそもリスクに晒される必要のなかった者をわざわざ新たに作り出し、避けられない苦痛の経験やそのような経験をするリスクの連続であるこの現実を既存の我々と同様に生き抜くことを、その者にも強制するということだ。我々は生きたいように生きればいい(そのためには『安全地帯』を出ることが恐らく望ましいだろう)し、冒したいリスクは冒していいし、人生を充実させたいだけ充実させていい――だが、他者の幸福を賭けてサイコロを振ってはいけない。主体が存在することによってのみ経験され得る快楽への欲求を、非存在者は持たないのだから、どうしてその主体を作り出して快楽追求に伴うリスクを冒させる必要があろうか(快楽を経験する能力は苦痛を経験する能力から――そしてそれ故にリスクから――独立して存在できないのだから尚更だ)。

他者に苦痛をもたらすことを避けるために個人の行動に非合理的な制約(生殖をしないこと)を押し付けるものとして反出生主義を捉えているが故に、「反出生主義的な思想を持つことこそが『安全地帯に留まりながら生きる』ことだ」と考える者もいるかも知れない。恐らく、このような見方が存在する理由は、人々が自分には他者を作る権利があるのだと感じていることだろう――この考えが普通のものとしてあまりにも広く受け入れられているために。そしてそのような人々には、反出生主義はその権利を奪うもののように見えてしまうのだろう。しかし、生殖する多くの(恐らくほとんどの)人々の無謀さの方がよほど非合理的だ――ピーター・ウェッセル・ザプフェが言うように。

「硬貨は吟味と慎重な検討を経て初めて物乞いに渡されるのに、子供は何の躊躇もなく宇宙の残虐に放り込まれる」

#51

総合的に幸福度がプラスになる人生を人々に与えられるようになれば、その人たちを作って宇宙全体の幸福の総量を上げるのはもちろん良いことということになるよね。

この言い訳を使う人は、現状で経験され得る、または実際に経験される生活環境の振れ幅が生殖を「良い」ものと見なすことができるほどの水準に達していないことを認識している。しかしながらそのような人も、生活環境は生殖を良いものと見なすことのできる水準に到達するまで、人類は倫理的な問題を顧みずに生殖し続けるだろう、という推定に基づいてこの言い訳を使うことがあり得る。これを心に留めたうえで続けよう。

幸福(どう定義されるにせよ)が良いものである理由は、有感生物がそれを経験した際にそれを望ましいものと感じるということだ。この言い訳は、どうやらそれを見落としているように思われる。幸福が良いものであるための前提条件は2つある:(1)有感生物が存在すること、そして(2)その有感生物が主観的な経験をする能力を持つことだ。世界全体の幸福が集計・処理・計算される宇宙論的中枢のようなものは存在しない。幸福は、個々の有感生物が主観的に経験するものだ。では、この言い訳の言う「幸福の総量」が増えることは誰にとって良いことなのだろう? 個々の有感生物の幸福の増大がその有感生物自身にとって良いことなのは当然だが、非存在は前提条件のいずれにも当てはまらない。ある者が幸福増大の恩恵を享受するためにはその者がすでに存在している必要があるのだから、存在しない人にとってそもそも必要でも望ましくもないものを経験できるように新たな人を作り出すというのは、達成する意味が全くない目標であるように思われる。それは、人が幸せな定年後の生活を楽しめるようにするためにその人を作るようなものだ――存在し始めるまで、その人は幸せな老後どころかそもそも定年を迎えることさえ望んでいなかったにもかかわらず、だ。我々は、既に存在して実際に生活の改善を望んでいる有感生物のために努力することもできる。それなのにわざわざ新たな有感生物を作り出して、その有感生物が幸福を経験できるようすることに労力を費やすというのは、尚更ひどい見当違いのように思われる。

ここで着目すべきことがある:新たな人々を作って幸福を経験させることが倫理的に善いことだと本当に信じている人ならば、その目的を達成するにあたり、わずか1人もしくは数人程度の生物学的な子を育てるために長い時間と多額の金と多くの資源を費やすのがいかに非効率で大きな機会損失を伴う営みであるかに気づくだろう、という点だ。そのような人であれば、代わりに他者に影響を与えて生殖するように仕向け、多くの資源を必要とするこの営みを他者に「委託」するはずだ。それを成し遂げる方法として、ボランティア活動や寄付によって生殖奨励主義の慈善団体に貢献したり、生殖奨励主義的な政策の促進のためにロビー活動をしたり、自分自身で生殖奨励主義の教育支援団体を立ち上げたりすることが考えられる。ただ、この種の言い訳を使う人の多くがこのように信念を実行に移すことをしない――そしてそうすることを検討さえしない――という事実は、これが本当は新たなヒトを作りたいという利己的な願望に利他主義の皮を被せた言い訳でしかないことを示唆している。

#52

野生動物の間に苦しみが広がらないように、我々は生殖し続けないといけない。

この言い訳は他者の苦痛への純粋な配慮から来るものである可能性が高い。しかしながら、指摘しておくべき問題がいくつかある。

まず第一に、この言い訳は誤った二分法に陥っている。(1)人類が生殖を続けて人口を維持する(あるいは今よりも増加する)か、(2)野生動物の間に苦しみが広がる(そして恐らく激化する)か、というものだ。しかし、可能性はこの2つに限定できるものではない。議論を続けるためにあえて「人間活動が行われている場所では、(ヒトとそうでない動物に)発生する苦痛は少なくなる」という主張――これが常に真であることは自明ではない――を受け入れるとしても、この人間活動がヒトの生殖に顕著に依存しなければならないと断定することはできない。向上し続けるホモ・サピエンスの技術的能力と知識の蓄積があれば、生身の人間を使わずに野生動物の苦痛を無くす方法が見つかる未来は想像し難いものではないだろう。

:現在、反出生主義(やその他の)界隈では、今よりも大幅に個体数を減らした上でヒトという種が存続し、野生動物(やその他の者)を苦痛から守るべきかどうかについて議論がなされている。そのような人類存続はある程度生殖に依存することになるだろうが、その生殖の規模は現在の水準からは程遠いだろうし、そのような時が来るまでは生殖を擁護する議論として無意味だ。

第二に、ヒトの生殖を野生動物の苦痛減少のための道具として見ることにしても、それはひどく愚かで暴力的なやり方だ。ヒトの生命維持のために生じる苦痛、そのヒトが意図的に他者にもたらす不必要な苦痛、そしてそのヒト自身が経験する苦痛を考慮すれば、これは苦痛減少の目的を達成する手段としてあまりにも遠回りな道のように思われないだろうか。苦痛を感じない有機体、道具、物を使って有感生物の苦痛を減らすことの方が明らかに合理的ではないか(これが今の人類には達成できないことなのだとしても、そうすることのできる能力の開発に注力することの方が、生殖を正当化する言い訳を考えるよりもよほど価値のあることだろう)。そしてこの点に関してもう一つ言っておかねばならないのは、何らかの目的を達成するための手段として有感生物を使うことはそれ自体、正当性が甚だ疑わしいものであり、奨励されるものではないということだ。

最後に、すでに言及したように、この言い訳は全ての状況に適用できるものではない。例えば、野生動物の苦痛が存在しない(あるいはほとんどない)場所については、この言い訳は通用しない。ほとんどの、あるいは全ての有感生物の生息に適さない場所(砂漠、南極、大気圏外など)にヒトの居留地を構えることは、この言い訳を使う人が達成したい目標、すなわち苦痛の減少に逆行することになる。苦痛がほとんど、あるいは全くなかった場所に、苦痛を発生または増大させるだけだ。

#53

生殖の道徳性は問えない――死から生、生から死へとエネルギーが宇宙を流れる一つの仕方でしかないよ。

この言い訳はとても奇妙だが、時折使われる。これが奇妙なのは、生殖の問題についての有意味な議論には全く関係ないように思われる「エネルギーの流れ」という非常に独特なレンズを通して生殖を見るからだ。反出生主義においては、新しい人々を作るということに関して倫理的な議論がなされる。生殖をその構成要素である生理現象や化学・物理現象に分解して考えたい者がいるのであれば、自由にそうすればいい。だがそれは、反出生主義者が提起しようとする問題とは無関係だ。

もう一つ指摘しておくべきことは、エネルギーの流れというものをその道徳性を問うことのできないものとして定義するならば、我々はどのような行為の道徳性も問うことができなくなるということだ。どのような行為も(我々が倫理的に善いとするものもそうでないものも)、必ず何らかのエネルギーの流れを引き起こす。どのような行為も動作がなされることを必要とし、動作がなされるにはエネルギーが必要だからだ。この言い訳を使う人は、世界に存在する強姦者、暴行者、殺人者などを批判する権利を本当に剥奪されたいのだろうか――それどころか、実際に自分を暴行した人を倫理的に批判する権利さえも失いたいのだろうか。この言い訳を使う人を被害者とするそのような行為も、「エネルギーが流れる一つの仕方でしかない」ことにならないだろうか。

#54

有感生物を作ることの害悪が利益を上回るかどうかは分からない。生殖の善悪については不可知論的な態度をとるべきだ。

大抵の場合、この言い訳を使う人は博愛主義的な立場から話してはいない。生殖を後ろ向きに検討する理由――生まれる者の利害を重視する立場に由来する理由(生まれる者が苦しみ、死ぬこと)、および生まれる者以外の利害を重視する立場に由来する理由(生まれる人が他者にもたらす苦痛)――の重要性が、生殖を前向きに検討する理由――生まれる者の利害を重視する立場に由来する理由(そのようなものがあると思う人は時折いる)、および生まれる者以外の利害を重視する立場に由来する理由(親戚や友人の利益、社会運営への貢献、野生動物の苦痛の問題の解決など)の両方――を上回るかどうかについて、確信を持てずにいるのだ。だからそのような人は、「全ての要素を功利主義的に計算しようとしても、誰かを作り出すことが全体として利益なのか害悪なのか判断することはできないのだから、我々は不可知論的な態度をとるべきだ(誰かが生殖することを選んでも生殖しないことを選んでも、その選択の善悪は断定するべきでない)」とする。

このような形の倫理的不可知論(ある行為が最終的に当事者に及ぼす影響が全て詳細に分かるまで倫理的な判断を保留する態度)は、一見すると特に非合理的なものには見えないかも知れないが、実践倫理を損なってしまう。この種の不可知論の支持者の多くが(全く正当に)関心を持っていると思われる別の問題――ヒト以外の有感生物を殺すこと――に、これを当てはめてみよう。牧草地で育てられるウシは、広大な土地を必要とする。ウシがいなければこの土地には野生動物が生息し、苦痛を経験することになるだろう。さて、このウシの喉を掻き切ることに関して、我々は道徳的に不可知論的な態度をとるべきなのだろうか? 我々はこの問題から距離を置き、道徳的な判断なしに誰にでも好きなようにこの有感生物の喉を掻き切らせてあげるべきなのだろうか? このウシたちが長く快適な生涯を送れるようにして、その死を素早いものにしたらどうだろう? さらに、このウシたちの死体を売って得られた金で次の世代の子牛たちを育てるのだとしたら? それでどれほどの野生動物の苦痛が回避されるだろうか。

他者の苦痛を気にかけているというならば、特定の行為が非道徳的だと認識することも明らかに可能だろう。この程度の不可知論に議論を停滞させることを許してしまうのではなく、他者の苦痛を軽減しようとするときなどに、それ自体倫理的に間違っていると明らかに分かるような行為をしてしまわないように最大限の努力をすればいいのだ。野生動物の苦痛を軽減するためにウシを殺す必要がないことが明らかなのと同じように、既存の有感生物の苦痛軽減のために新たな有感生物を作る必要がないことも明らかなはずだ。他の手段を優先的に実践すればいい。

この倫理的不可知論が使われるとき、それを使う人はほぼ間違いなく、生殖を他者に直接的で、明確で、重大な害を及ぼし、その人を死に至らしめる行為として見ていない。これには対処が必要だ。

#55

生殖は子供だけの問題ではないよ! 子作りは他の人に利益をもたらし、社会をより良くする。

新たな人を作ることが他の人や社会に利益をもたらし得るということは否定できない。その人を作った本人は、多くの場合、新たな人を作ったことから大きな意味と充実感を得ることができる――さらには、作られた人から身体的、経済的、その他の面での支援を老後に受けることもできる。その人を作った本人以外も、その人と持つ関係に意味を見いだすことによって、さらにはその人が貢献するサプライチェーン、団体、その他の組織など(例えば語学学校や医療制度)を通して間接的に、その人が作られたことの利益を得ることができる。

しかしながら、本当に問われるべきなのは、このような利益が(苦痛を経験していずれ死ぬことになる)人を作り出すことを正当化できるのかどうかだ。我々の目的のために他の有感生物を使うことに問題はないのだろうか(とりわけその有感生物が、作り出されて他者の利益のために利用されることに関して決定権を与えられていない場合には)。そして、今我々が有感生物を手段として使っているのならば、それを続けるよりもやめる方向に動くべきなのではないだろうか。他者に、とりわけ罪のない弱い立場の者に、意図的に多大な苦痛と死をもたらすことによって我々の欲望を満たそうとすることに、問題はないのだろうか。

実際のところ、我々が生きている世界では、人々は自らの行動の倫理的な影響に向き合わずに済んでしまうことが多い。人々は往々にして、社会の無知と無関心に救われるのだ。残念なことに、その無知と無関心のせいで、上に挙げた問いがそもそも存在することにさえほとんどの人が気付けないような現状が出来上がってしまっている。

#56

生殖を悪いものだと考えるなら、眠っている人や昏睡状態の人を殺すことも容認しないといけないことになる。

この言い訳(というよりも反出生主義への批判)は、反出生主義者は昏睡状態の人々の生命を積極的に終わらせたがっているのだ、と主張するものではない。有感生物を作り出すことに反対するならば、論理的な帰結として、一時的に意識を失っている(睡眠しているか、昏睡している)有感生物の生命を終わらせることをも支持しなければならない、というものだ。しかしこれは誤りだ。たまたま反出生主義を支持している人が死について独特な見解を持っていても、死に関してその見解だけが反出生主義から論理的に導き出されるということはない。この言い訳自体に反論する前に、この言い訳を持ち出す人がなぜ反出生主義が死についてそのような帰結を導き出すと思うのか、訊いておくとよいだろう。だが反論したい場合には、下記を知っておくとよい。

この主張に対応するためには、反出生主義を支える基礎に立ち返る必要がある。有感生物の生成に反対する立場は、以下の2つのスタンスから成り立っていると言える:(1)直接的で、重大で、明白な苦痛を他者にもたらすことを可能な限り避ける(2)直接的で、重大で、明白な苦痛をもたらす可能性のある不必要な選択を被害者の同意なしにしない。有感生物の生命を終わらせることは、たとえ意識を失っている状態であっても、この2点に反することになる。死んだ後の状態が苦痛を発生することはあり得ないが、そこに至るプロセスは苦痛を発生する恐れがある。他者を殺すことは、死に至るまでのプロセスを押し付けることを意味するのだ(正気の沙汰ではない!)。危害をどう定義するか、また死そのものが危害であると考えるかどうかにかかわらず、他者の生命を終わらせることは危害がなされる可能性を作ることであり、その状況に我々の独断で他者を突き落とすということなのだ。意識を失っているとされる人々の意識・知覚・認知のレベルは不確実であり、死によって実現を阻止され得る欲望をそのような人々が持っているのかどうかについては議論がある。これらの点で、死は非存在と似て非なるものだ;人々が作られる前には、それに先行する何かが存在するということはなく、ただそこには何もないのだ。

さらに指摘しておかねばならないのは、意識を失った状態であっても、人は他者に対して道徳的な責任を負っているということだ。昏睡状態や睡眠中の人に子供がいる場合、その人を殺してしまうと、子供に対する倫理的な責任が果たされないことが確定してしまう。あるいはその人は、他者の苦痛を軽減する何らかの仕事を行なっているかも知れない。その場合、その仕事を引き継いでくれる別の誰かが現れない限り、その仕事が成し遂げられることはなくなってしまう。

#57

君が思っているより人は強いものだ。苦痛に耐え、人生のいいところを楽しむことができる。

確かに強い人もいる。多くの困難を乗り越えて人生の終わりを迎え、「そんなに悪い人生じゃなかった」と振り返る人は多いだろう。問題は、その困難に自らの身を投じる選択を誰もしていないということだ。他者に、本人が望んでもいない困難な経験をさせるべきなのだろうか(それも我々自身の欲望を満たすためだけに)? 人は強いと思う人もいるだろうが、そのことはその人が作る人も同様に強い人になるとは限らない。仮に強い人になったとしても、作られる人が困難に対処し乗り越えられるということが、そもそもその困難を経験させること(あるいはその困難によって苦痛を経験するリスクに晒すこと)を正当化できるだろうか?

結局のところこの言い訳は、ある人がまだ関係を築いていない赤の他人(まだ生み出されておらず存在していない人)を、多大な害、そして最終的に死が待ち受ける状況に追い込み、それを「この人ならきっと大丈夫だよ」と言って正当化しようとするものだ。その人が存在する前は人生の「いいところ」を経験する能力も願望も存在しなかった(それを持つ人がそもそもいない)のに、それを享受できるようにわざわざ新しい人を作り出すというのだ。

#58

他者の苦痛を防ぐために、どうして私が犠牲を払って人生の喜びを諦めないといけないの?

この自己中心的な言い訳においては、苦痛を防ぐことと苦痛を作り出すことが混同されている。生殖しないことは苦痛を防ぐことではなく、苦痛を作り出さないことだ。この混同の根本にあるのは、新しいヒトを作ることは不作為(何もしないこと)だという思い込みだ。我々の多くはそう思い込むように育てられてきたが、事実はその逆だ。ヒトを作らないことが不作為、すなわち「ゼロ」であり、作ることが作為、つまり「プラス」なのだ(道徳的な価値の意味での『プラス』ではない)。この新たな枠組みから、ヒトを作らないことは苦痛を防ぐことではなく、単純に苦痛を作り出さないことなのだと理解することができる(なぜなら、我々が能動的にヒトを作る行動をしない限り、苦痛は存在しないからだ。苦痛を防ぐためには、我々は事態に介入して、我々が行動しなければ起こるであろう苦痛が起こることを止める努力をしなければならない)。例えば、私が娯楽として職場で同僚を虐めたりはしない人だとすれば、私が「誰も虐めないことで苦痛を防いでいるのだ」などと主張するのは奇妙だろう。正しい枠組みでこの例を語るとすれば、私が同僚を虐めないことは、単に苦痛を生み出していないということでしかなく、ヒトを作らないことについても同様のことが言える。

この言い訳に関してもう一つ取り上げておかねばならないのは、「生殖しないことは犠牲を払うことだ」としている点だ。この言い訳を使う人々に同情し、彼らがそれまでの人生の中心に据えてきたこと(生物学的な子孫を残すこと)が恐らく失われようとしているのだと理解することはできるが、我々は自らの立場を堅持しなければならない。生殖しないことは他のあらゆる倫理的な作為(または不作為)と同様、犠牲として見られるべきではない。例えば、ある人の持つ性的な欲望の対象となる人が性行為に同意していない場合、この欲望を持つ人がそれに身を任せて行動しないことは、「犠牲」という観点から見られるべきではない。この人にとっては残念なことだが、その欲望は満たされないままにしておかねばならない。この例では、この人の欲望は倫理的に許容されない方法でしか満たすことのできないものだからだ。しかし朗報がある。子孫を育てることにこだわりたい人には(新しいヒトを作りたい人から見れば)「次善」の選択肢が常にある。養子縁組だ。世界中で何百万人もの子供(ヒトでない動物の子も検討してみてほしい)が、生み出されたにもかかわらずその後安定した保護を得られていない。

#59

君は弱く、人生を上手く生きられないから、他の強い人々が人生を謳歌するのを邪魔しようとしているんだ。

これは言い訳とは呼べない単なる侮辱であり、無視されて当然のものだ。しかしながら、反出生主義への反応に反駁するこのハンドブックの趣旨に沿って言うとすれば……

恐らく、ここでの「弱い」とは身体的な弱さのことではなく、人生で我々が経験する様々な困難に耐えるための感情的・精神的な強さを欠くことを指すのだろう。その意味での弱さについて言えば(それどころかどのような意味での弱さについても)、反出生主義者は属性として弱いものではない。弱い反出生主義者もいれば、とても強い反出生主義者もいる――出生主義者が個人によって弱かったり強かったりするのと同じだ。(この言い訳を使う人自身が、その目には『弱い』と映る子孫を生み出すかも知れない――生殖する前にそのことを考えただろうか?)反出生主義者の言うことの中身を見てみれば、その多くは人々に降りかかり得る残酷で不条理でおぞましい物事に光を当てるものだ。そのようなことを考えて話題にするのは簡単なことではなく、精神的な強さを必要とすることが多い。これに加えて、反出生主義者は友人が嬉しそうに「妊娠した」と報告するたびに苦痛の存在を思い出させられる。この意味で、反出生主義者は強いものだと言えるが、当然この強さには個人差がある――そしてそのことは反出生主義者に限らず、誰に関しても同様に言える。

もう一つ言っておかねばならないことがある。多くの反出生主義者は、反出生主義を支持する前は子を作りたいと思っており、その目標に向かって人生設計をしていた。自身の世界観と矛盾する新情報を受け取り、自分は間違っていたと認め、その後の行動を変えて強い欲望を抑えることには強さが要求される。

#60

貧しい人々に生殖をやめさせることに集中すればいいじゃないか。彼らはたくさん子を作るけれど、裕福な我々はそれほど多くの子を作っていない。

この言い訳が「現実的なポリシー」の提案として受け取られることを期待して使われる可能性もあるだろうが、恐らく実際には個人の行動や責任に向けられる注目を遠くにいる人々へ逸らそうとしているだけだと推測して問題ないだろう。

注:反出生主義は苦痛を感じる能力を持つものを作ることに反対するものであって、特定の生物種(ホモ・サピエンス)の中の特定の属性(例えば宗教的、経済的、人種的なもの)を持つものを作ることに反対するものではない、ということは最初に指摘しておく価値がある。

この言い訳を使う人は、人口統計学(出生率を含む、人口に関する学問)的な現状に即していない古いステレオタイプに囚われている可能性がある。「貧しい人々」と言うとき、彼らが想定しているのは恐らくインド、バングラディシュ、中国のような人口の多い中所得国だ。しかしこの国々の出生率はそれぞれ2.18、1.99、1.7※1であり、中国に至ってはイギリスやアメリカ合衆国よりも低い※1。他国を指さして何かを言う前に、対象国の人口に関する事実を確認しておくのが賢明だろう。

現代の人口統計学的な情勢の一般的な理解の仕方が時代遅れのものであるのだとしても、出生率が世界平均を大幅に上回る国や地域があるという事実は無視できない。そして、そのような国はアフリカ大陸の低所得国であることが多い※1。この事実から目を背けるべきではないが、その国の人々を悪者扱いするのは道徳的ではないし適切でもないと断言しなければならない。出生率の高さの背景には様々な理由――幼児死亡率の高さや効果的な避妊法がないことなど――が考えられる。それを認識することによって、我々は共にそれらに対処するための政策や運動を支えることができるし、結果としてその地域の出生率を下げることができる。

人口統計学は議論の題材としては面白いが、ほとんどの場合、それを持ち出す人は自分の倫理的な責任から相手の注目を逸らすために使っている。もしこの人が他者の苦難を(間接的に)スケープゴートとして使って自分の生殖を正当化したいのであれば、その人は考え直して別の言い訳を使わなればならない。

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